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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/03/28

飛鳥資料館には古墳も


飛鳥資料館の野外展示には古墳もある。それは南西の隅にあって目立たないので、前に来た時は気づかなかった。墳丘は元の大きさでないらしいが、石積には大きな石が使ってある。  説明板によると、飛鳥資料館の南方にある古墳群マキト支群5基(6世紀中頃~7世紀前半)の中で最も大きな墳丘径22mの円墳で、6世紀後半に築かれた八釣マキト5号墳で、横穴式石室墳という。館内にあった横穴式石室の構造図です。両袖式(羨道より玄室が両側に広がっている)の石室は玄室長4.1m、玄室幅2.1mというから、5世紀中葉~後半の新沢千塚221号墳よりもずっと立派である。何より積石1つ1つの大きさが違う。岡山県のこうもり塚古墳よりは小さいかなあ。
中には弓矢などの武具、鉄地金銅張りの鞍金具をはじめとする馬具類、須恵器のセットが納められていた。古墳の大きさや副葬品から、当地を治めていた豪族の墓と考えられるという。6世紀後半というと藤ノ木古墳に近い頃なので、似たような鞍金具かも。羨道は5.9mと玄室よりも長い。 飛鳥資料館の平常陳列に壁画古墳が再現されていた。高松塚古墳だと記憶しているが、キトラ古墳だったかも知れない。実物大で、思ったよりも小さかった。 そして地下室には、大きな高松塚古墳の墳丘断面の地層の手前に小さな長方形の箱状のものがあった。のぞいてみると、高松塚古墳の壁画のある玄室に、棺が入れられている様子が展示されていたのだが、玄室は横から見たよりもずっと小さく、棺が入ればいっぱいいっぱいという感じだった。どうやって入れたのだろうと思うくらい狭かった。
7世紀末から8世紀初めという古墳の終末期だからこそ、美しい壁画が描かれるということも行われるようになっていたのだろうが、玄室がこんなに小さな物だったとは。径約20mといえば八釣マキト5号墳くらいの大きさだ。
大きな石を運ぶのが権力の象徴だった時代が終わり、こぢんまりと造るが、内部は中国思想に基づいた死者が永遠の眠りにつく小宇宙を極彩色で飾るようになったのだろう。

※参考サイト
飛鳥資料館の各ページ