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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/01/28

新沢千塚古墳群を巡る3


新沢千塚古墳群の北側を見学して資料館の裏側まで戻ったら、道なりに県道南群の方に行けそうだった(『海を越えたはるかな交流展図録』の古墳分布図)。県道まで出ると登り口もすぐにあった。北群は冬なので枯れてはいるものの古墳は芝生で覆われていたが、南群の方はマルチングシートから草がポツポツ出ていて違和感がある。
南群西端の頂上の方に行くと、発掘調査後荒廃して崩れてしまったので古墳を復元展示してあるというような内容の説明板があった。
221号墳もマルチングシートで覆われた円墳だったが、南側に回ると石室が見えた。
同展図録によると、新沢千塚は、木棺直葬が主体の群集墳として性格付けられているが、そのなかに初期横穴式石室を採用した古墳が含まれることは、89年度、県道南群の221号墳の調査で確認された。
径13m、高さ3.3mの円墳で、墳丘中央に南に開口する横穴式石室の基底部がのこっていた。右片袖式の石室で、幅1.32m、長さ3.02mの玄室に、幅0.75mの羨道がつき、全長4.42mになる。玄室の床より羨道は15㎝高くつくられ、壁面には厚さ20㎝前後の石を積み上げている。石室内はすでに盗掘されていた
ということで、副葬品は、須恵器の他は木心鉄板張輪鐙がかろうじて残されていたという。
内部は土や補強材などで覆われていたが、図録の写真では土壁に細い線が何本も入っている。版築の層だろうか。翌日訪れた飛鳥資料館では、高松塚古墳の地層断面が展示してあって、版築の非常に薄い層がとぎれとぎれに重なっていた。版築という土をつき固めて積み上げる技術は日本にあったのだろうか、それとも外来の技術なのだろうか。
トルファンの高昌故城でみた版築は10㎝くらいの水平な層だったし、漢時代に築かれたというクチャのクズルガハ烽火台も同じよに水平な版築の層が重なっていた。それらと比べると、日本の古墳時代は版築に習熟していない時期のように思える。
人と比較してみるとこんな感じ。221号墳の東側にも復元古墳があった。こちらは直葬の円墳らしい。空き地を挟んで向こうにも新沢千塚古墳群は続いている。今回はここまで。 最初にゆっくりしすぎたので段々古墳の間を歩くだけとなり、1時間半の見学となった。
南群も3つくらいの尾根に分かれていて、さらにその東に鳥屋ミサンザイ古墳という周濠のある前方後円墳もあるので、またいつか歩いてみたいなあ。

※参考文献
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)