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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/05/10

雷文繋ぎ文



ボストン美術館展で展観されていた一字金輪像の裳には雷文繋ぎ文という文様があった。

雷文繋ぎ文 一字金輪像 裳 鎌倉時代(13世紀初) 1911年寄贈 フェノロサ・ウェルドコレクション
四角い渦が3周して中心に向かっているが、周囲の雷文とは繋がっているようには見えない。卍繋文の変化した文様ではなさそうだ。
鎌倉時代の文様について『日本の美術373截金と彩色』は、文様は定形化した地文にかえて新しい文様や技法も見出すことができるという。その中に雷文繋ぎ文があった。
雷文繋ぎ文は仏眼仏母像にもあったと思われる。

雷文繋ぎ文 仏眼仏母像 裳 鎌倉時代(12世紀末-13世紀初) 京都高山寺像
裳には雷文繋ぎ文があるように思える。卍繋文ではなさそうだ。
『日本の美術33密教画』は、彩色も全般に白い乾いた感じの胡粉地で、自身白衣の幽玄な白の色彩感など、宋仏画に通うところがあるという。
日本に請来された宋の仏画にも、截金あるいは銀泥で表された雷文繋ぎ文があり、それが請来されたということだろう。
雷文繋ぎ文 孔雀明王像 裳 鎌倉時代(12世紀末-13世紀前半) 京都安楽寿院蔵
上の2点同様、格子の枠のどこかの辺に雷文は繋がっているのだが、それに規則性は見られない。
雷文繋ぎ文 山越阿弥陀図 着衣 鎌倉時代 京都金戒光明寺蔵
『日本の美術373截金と彩色』は、11世紀の仏画は「地文彩色・主文彩色」かあるいは「地文截金・主文截金」のどちらかで「地文截金・主文彩色」の組み合わせは仏像にならいそのあとに使用された表現法である。彩色地に地文も主文もすべて截金で表すものの次に鎌倉時代になって黄地の上に截金を置き、肉身も黄(金泥)で表すいわゆる悉皆金色と呼ばれる新しい表現法が仏像や仏画に使用されるようになったという。
悉皆金色というが、黒っぽい截金と、金色がよく残る部分とがある。金色部分は金箔だけの截金だったために現在でも金色、他の截金文様は合わせ箔のため、内側にあった銀箔が現れた箇所は黒く変色したのだろう。
雷文繋ぎ文は一重格子の中に、各辺3巻きの雷文が置かれていて、中には金色の残る線もある。その上の自由文による草花文も合わせ箔で、部分的に金色が残っている。長網文は金箔だけで表されたようで、金色がよく残っている。
合わせ箔についてはこちら
雷文繋ぎ文 聖観音立像 二間観音梵釈立像うち  鎌倉時代(13世紀) 東寺蔵
同書は、素地に截金を置くのは、漆や色地に置かれる華やかな截金とは違った奥ゆかしさを求める別の美意識から使用されるようになったものと思われる。素地截金は中国の檀像に先蹤があるが、日本の素地截金のように「地文截金・主文截金」の組み合わせになる遺例は現在知られていない。東寺二間観音梵釈立像の細緻さは瞠目に値するという。
二重格子の中に各辺3巻きの雷文が収まっている。
上の麻葉繋文も鎌倉時代の新しい文様。
同書は、平安後期から鎌倉時代にかけて截金文様で新奇なものが現れるが、それが中国南宋の影響によることはおよその察しはつくが、中国製のものは遺例に乏しく、出土品の染織文様を参考にして比較できるぐらいである。むろん中国で白大理石に金箔を押し(北斉武平元年[570]白大理石台座・白鶴美術館蔵)、截金・截箔を置く(8世紀中頃、西安大安国寺遺址出土宝生如来坐像、陝西省博物館蔵)ことに長い歴史があり、北宋康定元年(1000)8月には、金箔を以て仏像を飾ることが禁ぜられる(『宋史』巻10)ほど截押金箔は盛んであったという。
雷文繋ぎ文は、今まで見てきた仏画にはありそうでないもので、南宋から請来された文様だった。
日本では、もたらされた当時はもちろん、後の時代にまで、雷文や雷文繋ぎ文は長く表される文様となった。

関連項目
卍文・卍繋文はどのように日本に伝わったのだろう
メアンダー文を遡る
卍繋文の最古は?
ボストン美術館展4 一字金輪像
截金の起源は中国ではなかった
唐の截金2 敦煌莫高窟第328窟の菩薩像
唐の截金1 西安大安国寺出土の仏像

※参考文献
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥高 1997年 至文堂
「日本の美術33 密教画」 石田尚豊 1969年 至文堂