もう一つの驚きは三彩の尾垂木先瓦だった。
三彩尾垂木先瓦片 西大寺東塔と西塔で使用 復元径15㎝厚1.1㎝
同展図録は、型板からヘラで粘土を切り出して製作された。釉薬は濃緑・淡緑・褐・白の4種を使用するが、濃緑釉が輪郭用に用いられる。型紙で枠取りして、褐・淡緑・白の順に彩色された。
六角形の中房に、6弁の複弁風の花弁を表す。六角形の各辺に対して花弁が1葉対応するように割り付けられる。輪郭は濃緑色釉で描かれ、その内側に淡緑釉、外側に褐釉が彩色される。子葉は褐釉で縁取りされた内側に淡緑釉が配されるという。
輪郭が濃緑色釉で描かれているとはいえ、花弁は外側から濃緑、淡緑、白色の順に繧繝彩色を目指したのではないだろうか。
『菅谷所長と語る!平城京とその時代 連続ミニ展示図録』は、奈良三彩には、唐三彩のように人物や動物を象った俑や墓室におさめる明器としてつくられたものはなく、その形態は全く異なっていました。奈良時代の金属器や土器と同様の形をした器の例が最も多く、瓦も焼かれました。
中国から輸入された唐三彩は、貴重な存在でした。唐三彩に比べ、奈良三彩の出土量は多いですが、それでも貴重な存在でした。平城京内では、宮や寺院、貴族の邸宅を中心とした拠点で出土していますという。
三彩釉以前に日本では釉薬をかけた焼き物はなかったにもかかわらず、こんなに手の込んだ作品が作られたとは。
三彩有蓋短頸壺 伝岡山県津山市出土 陶製 総高21.3口径13.6 奈良時代(8世紀) 岡山県倉敷考古館蔵
『大遣唐使展図録』は、奈良三彩は、中国の唐三彩の影響を受け、日本で作られた三彩陶器である。坏や盤、鉢、壺など様々な器種があり、主に寺院における法会、神への奉納など非日常的な場所で使われることが多かった。
奈良中期頃の須恵器壺にも一般的に見られる姿である。唐三彩にこのような器形はなく、この製作には明らかに伝統的な日本の須恵器工人が関わっていることか分かる。釉薬は緑釉を基調としながら、褐釉と白釉を寄り添えた斑文を、胴部におよそ4段、上下で互い違いになるように点じているという。
こちらの濃緑色に見える箇所は、緑釉と褐釉が溶けて混ざったのだろう。唐三彩でもこのように釉薬が流れて他の色と混ざっているのはよく見かける。
その製作は少なくとも奈良時代の初め頃にまで遡り、神亀6年(729)銘の墓誌を伴う小治田安万呂墓には三彩小壺の副葬が確認されている。奈良三彩は中央の官営工房で作られた特注品の性格が強く、天平6年(734)の「造仏所作物帳」(正倉院文書)には、興福寺金堂の造営に関わる資料として「瓷坏料土」、「瓷坏燃料薪橡」(釉をかけた坏を作るための粘土や薪)、釉の原料となる黒鉛などが書き上げられている。遣唐使の一行には技術者も含まれており、「玉生(ぎょくしょう)」と呼ばれる工人(主にガラス玉作りの工人か)も見られる。ガラスと同成分の三彩釉について、素材や調合の知識を持ち帰り、奈良三彩の製作に応用したのであろうという。
唐から三彩の技法がもたらされたのではなく、遣唐使船に同行した「玉生」が唐三彩の窯元で釉薬の素材や調合法を持ち帰って生まれたのが奈良三彩だったのだ。
田上惠美子氏は工人ではなく作家であるが、奈良時代だったら「玉生」と呼ばれていたかも。
※参考文献
「平城遷都1300年祭記念秋季特別展 奈良時代の匠たち-大寺建立の考古学-展図録」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「平城遷都1300年祭記念 菅谷所長と語る!平城京とその時代 連続ミニ展示図録」(2010年奈良県立橿原考古学研究所及び附属博物館)
「平城遷都1300年祭記念 大遣唐使展図録」(2010年 奈良国立博物館他)
「平城遷都1300年祭記念 大遣唐使展図録」(2010年 奈良国立博物館他)