ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2007/08/10
窰洞(やおとん)と四合院
車窓から見る窰洞は、平地に造り上げたものだった。『建築巡礼16 中国大陸建築紀行』ではそのようなものを地上窰洞と呼んでいるようだ。
平遙の四合院にも地上窰洞が用いられているので、地上窰洞は遅くとも清代にはあったようだ。渾源県から大同市の道中で見かけたものは、最近作られたというのでもないのかも。
ところで、平地に作られたものを地上窰洞と呼ぶなら、これぞ窰洞と思っていた、黄土高原の崖に横穴をを掘って作られた窰洞はなんと呼ぶのだろうか。
それは靠崖式(こうがいしき、カオヤー)窰洞というらしい。
同書は、黄土高原の窰洞集落を一つでも多く訪れたかった私達は、考察の回を重ねる度に新しい地域を加え、靠崖式の集落も数多く訪れた。 ・・略・・ 自然にとけこんだ景観の美しさがある。三門峡市から車で1時間弱、黄河の峡谷に横たわる三門峡大ダムに向かう道筋にある位家溝村(ウェイチアコウ)は、私達の誰もが「桃源郷」と口にした美しい村だったという。
そんなに美しい村なら、今でも桃源郷であり続けていてほしいものだ。 同書では、我々が探していた靠崖式窰洞よりも、下沈式窰洞(かちんしき、シアチェン)というもを探して中原のあちこちを調査している。
平坦なユアン(土偏に原)上に四角い中庭をぽっかりあけた下沈式 ・・略・・ 地坑院(ティーコンユアン)と呼ばれる下沈式窰洞住居の中庭の穴が、規則正しく並ぶという。
うっかりと落ちてしまうのではないかと、そそっかしい私は心配になる。同書で中澤氏は、それにしても目の当たりに見た下沈式窰洞住居の印象は強烈なものだった。中庭の際まで近づいて、やっと人の住まいと知れる不思議もさることながら、穴を掘るだけで空間を生み出す窰洞は、柱を建て、壁を築く、私達の知っている「建築」行為とは逆向きの空間獲得の方法である。 ・・略・・ ひとたび下沈式の中庭に降り立てば、その平面構成や住まい方は、漢民族の代表的な伝統的住居形式である四合院そのもの、見上げた青空天井に別称天井院(ティエンチンユアン)式窰洞も腑に落ちたという。
どうやら四合院は内モンゴルからやってきた胡人の住居ではなかったようだ。四合院の原型が下沈式窰洞と理解してよいのだろうか。ところで、用語が少し異なっているが、靠崖式窰洞と下沈式窰洞の作り方が記された本があった。
『中国古代の暮らしと夢展図録』は、明器は、生者が日常生活において実際に使用する祭器にたいして、墓主が黄泉の世界の暮らしに便なるように用意され、副葬されたものである。したがって、 ・・略・・ 個々の陶屋や什器などの明器にも墓主生前の生活が濃厚に反映することになるのは当然であった。
一般に窰洞(やおとん)と呼ばれる横穴住居は、黄土層の断崖に向かって水平方向に土壙を掘りすすめてヴォールト天井式の居室空間を形成するもので、山西・河南・陝西など、黄土地帯の広域にわたって数おおく分布する。窰洞には、いくつかの類型があり、ほとんど直立に近い自然の断崖をほぼそのまま利用し整形を加えるだけで、直截横穴を掘りすすむタイプ(靠山式、こうざん)がもっとも簡単で、しかも普遍的に存在する。一方、はじめから人為的に、地面に方形の竪穴を掘り下げて院子(中庭)をつくったうえで、あらためて黄土の四面の断面に向かって横穴を掘りすすむもの(天井式)がある。 ・・略・・ 窰洞は基本的に一室ずつ水平方向に穿たれた土壙の居室の数室からなっていて、それぞれが地上の住居の一棟に相当するかたちをとり、しかも各室の入口はすべて中庭に面することになる。この構成は人為的に中庭を掘り下げてから作る天井式の窰洞の場合とくに顕著にみとめられるだろう。
このように、土壙と木造家屋とで構造的にも外観としてもまったく異質でありながら、平面配置の原則は軌を一にしていることが理解されるだろう。天井式の窰洞の場合、その四合院との共通点がとくに際だっているという。
田中淡氏も四合院と天井式の窰洞との共通点に着目しているようだ。塀をめぐらした住居の陶製模型 呉(222-258年) 湖北鄂将軍墓出土 鄂州市博物館蔵
呉時代(三国時代の一つ)にはこのような四合院に似た明器も作られているので、少なくとも同時代には四合院の原型のようなものが存在したことが伺える。ということは、その時代に沈下式窰洞も存在したと考えてよいのだろうか。
※参考文献
「建築紀行16 中国大陸建築紀行」 茶谷正洋・中澤敏彰・八代克彦 1991年 丸善
「中国古代の暮らしと夢展図録」 2005年 愛知県陶磁資料館他
「図説中国文明5 魏晋南北朝」 羅宗真著 2005年 創元社