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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2006/07/27

これが話題の良弁さん

2006/07/07の「鑑真さんと戒壇院」に

07/08 古美好さん
東大寺を建てた良弁僧正は百済からの渡来僧。鑑真との出自の違い。先輩後輩。位も同列の僧正。当時は僧正が最高位等。なんぼ高徳の人といえども並び立つと言うことは無理だったようですね

07/09 返事
ウィキペディアを引くと、「天平勝宝8歳(756年) 鑑真とともに大僧都」という項目についてですね。なお、出自については「2歳のとき鷲にさらわれて、奈良の春日神社の杉の木に捨てられ、義淵に育てられたという」ことです。

別の名前のないホームページによると、良弁さんは「近江または相模の出,百済系渡来人の後裔といわれる」だそうです。
良弁さんと鑑真さんの確執というのは出てきませんが、これだけではなかったとは言えません。
しかし、鑑真和上像が亡くなる直前に弟子達によって造られたのに比べ、東大寺蔵「良弁像」は没後246年後の1019年に御忌法要が初めて行われ、開山堂創建、僧正像も同時に造立されたそうです。あまり弟子に慕われる人物ではなかったのでしょうか。蛇足ですが、貞観彫刻の影響で「良弁像」はどてっとしていて、ガラの悪いおっさんのようなのでしょうか。

07/24 好考爺さん
たとえば、大事業「東大寺建立」をする人と信仰に生きる聖と言われる人と性格は違って当然でしょう。


というコメントが寄せられた。それで、東大寺蔵「良弁像」及び開山堂の説明を同寺出版の本(パンフレット?)からコピーした。
開山堂は、東大寺の初代別当で聖武天皇や行基らとともに東大寺の創建にもっとも力のあった良弁(ろうべん)僧正をおまつりしたお堂である。
内陣中央に八角造りの厨子が据えられ、国宝の僧正像が安置されている。良弁が遷化した宝亀4年(773)年から246年後の寛仁3(1019)年に初めて御忌法要が行われたことから、開山堂はそのときに創建され、僧正像も同時に造立されたようである。がっしりした体躯に気魄をみなぎらせた肖像彫刻の傑作である。(秘仏特別開扉12月16日)
彫刻にも時代により様式が違うが、鑑真さん(07/07 鑑真さんと戒壇院参照)や重源さん( 06/23 奈良国立博物館1 重源展参照)のように、生きている内か死後間もなく造られた肖像は、様式や時代性を越えてそれぞれの人となりが迫力をもって伝わってくる。
僧侶にもいろんな顔や体型の人がいたと思うが、250年もたってから像を造ってその人物というものを表すこと自体が無理である。
その違いに加えて、貞観様式の塊量感のある作風がどてっとした良弁さんにしてしまったように思える。威風堂々という見方もあるとは思うが。