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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/04/21

鬼面文鬼瓦8 法隆寺2 橘吉重作




『鬼・鬼瓦』は、てづくりで1個1個つくることになりますので、随分といろいろなユニークな鬼面が見られます。そのような鬼面の瓦に2本の角をはやし、頭を前に出し、屋根の上からじーっと睨み出す鬼面瓦を生んでくれたのが瓦大工「橘の寿王三郎吉重」なのです。この人は一般の瓦においても大した考案のある瓦をつくり、自ら新しい鬼のイメージを作品に託し、活動力のある製作を続けた有能な瓦大工だったのです。陰惨でないおおらかな鬼は、日本人独特の鬼に関する思い遣りのある心で表現された強い鬼瓦になっていますという。
初代吉重のデビュー作とされている鬼面文鬼瓦は、明石市報恩寺跡より出土している。
その作品はこちら

『日本の美術391鬼瓦』(以下『鬼瓦』)は、応永12年(1405)5-6月、父国重の喪明け後、初代吉重は大講堂の瓦を製作し始め、翌13年に完了する。鬼瓦34Aには「タチハナノ吉重瓦大工彦次郎」、鬼瓦34Bには「ナヲカエテ寿王三郎」の銘文があり、彦次郎はこの時から瓦大工となり、「寿王三郎」名を継承し、「橘吉重」と名乗るようになったことがわかるという。

法隆寺鬼瓦34A 応永13年
『鬼瓦』には金堂大棟としているが、この解説によると、大講堂用に作られたものということになる。
鋭い角、オタマジャクシのような眉、眉間の山形の盛り上がり、下方を睨む目、「ひ」の字形の口、上の牙は小さく、歯は幅広で、上の2本が目立つ。下の前歯は何故か中央に1本、そこから左右に3本ずつ並んでいる。蕨手状の巻き込みは力強い。
デビュー作とは全く異なる鬼面である。
法隆寺鬼瓦34B 応永13年(1406) 大講堂東端 初代吉重(寿王三郎)作
『鬼瓦』は、吉重が作った大講堂の鬼瓦は、鬼面の表現や頭頂部に宝珠を置くといった点に、亡き国重の作風を受け継いでいる。一方、脚端が反り上がり、そこに蕨手状の巻き込みを施すという、吉重の独創性も認められるという。
34Aと比べると、眉・下牙・顎鬚に違いが見られ、珠文が1つ多いくらいで、よく似ている。34Aと同じ年に吉重が製作したものだった。

法隆寺鬼瓦36 応永23年(1416) 聖霊院大棟北端 初代吉重作
『鬼瓦』は、大講堂に引き続き、聖霊院の瓦を合計7000枚製作する(鬼瓦35)。
応永23年には聖霊院の二度目の瓦作りをするという。
宝珠は火焔状となり、角が鳥衾を挟むような角度になっている。
顔は幅広となり、口も曲がらずに横に大きく、上の牙は唇の内側に収まる。下前歯は1本中央にあるのか、左右対称に並べているのか、この角度からはわからない。
このように、実際に屋根に取り付けた写真が残っていると、蕨手状の巻き込みが大棟を挟み込んでいる様がよくわかる。

法隆寺鬼瓦 応永13年-永享元年(1406-1429) 薬師坊の鬼瓦 「寿王三郎」銘、初代吉重作
『国宝法隆寺展図録』は、角がなく、口を歪めた鬼瓦。
文安5年(1448)、最後に゜ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と瓦に書く。享年71歳という。
これ以前も以後も、鬼面は左右対称に口を開くし、鎌倉末期以降は牙が表されるのに、牙の先も見えない。角も眉に隠れそうだ。

『国宝法隆寺展図録』は、応永14年以降応永末年までは、法隆寺では銘文瓦は比較的少なく、吉重が53歳となった永享2年(1430)以降、銘文瓦が増えるという。

法隆寺鬼瓦39 永享2年(1430) 綱封蔵東南隅 初代吉重作
『鬼瓦』は、永享2年には綱封蔵の瓦を製作する。この時に「ユウアミ(ユウ阿弥)」という阿弥陀号をはじめて瓦に書く。くしくも父国重の享年52歳を越えて53歳になった年である。しかし、寿王三郎吉重の銘も併記しているので、吉重はまだ大工の地位にあったという。
眉間の盛り上がりが同心円状に頭頂部の形にまで影響を及ぼす。
眉に毛並みは表されず、顎鬚は左右に分かれる。
口を閉じているので前歯は見えないが、上下の細長い牙は口角からはみ出ている。

法隆寺鬼瓦43 永享9年(1437) 東院絵殿・舎利殿南面西降棟 初代吉重作
『鬼瓦』は、吉重は絵殿・舎利殿北面の鬼瓦に、「旦那の好みに寄りて粗豪に作るなり」と書いているので、瓦の形や文様の選択について、屋根葺き奉行の僧侶が注文をつけていた可能性があるという。
丸い顎の左右に3つずつ渦巻いたひげがある。上の牙は長く鋭い上に、前歯も牙のように尖っているのは、吉重の他の作品には見られない。

法隆寺鬼瓦の番号は、必ずしも製作年代順ではないようだ。

法隆寺鬼瓦42B 永享10年(1438) 南大門大棟東端 初代吉重作
『鬼瓦』は、鬼瓦10個はすべて7月20日から8月6日の間に、吉重自らが製作している。3日に2個のハイペースであり、61歳の老骨に鞭打っての執念の仕事といえる。さらに銘文によれば、この時に使用した粘土は、食堂の前で採掘した土で、現在そこには方形の池があるという。
上の牙の外側に、もっと長い下牙がまっすぐ上に伸びている。吉重の鬼瓦は、顎鬚の表現がそれぞれ異なっている。

法隆寺鬼瓦45A 永享10年(1438)以降 福園院本堂西北一の鬼 大工十王大夫銘、初代吉重作
『鬼瓦』は、外区に宝珠紋を型押し。正面脚部に「大工十王大夫」銘。十王は寿王大夫すなわち初代吉重。額に階段状の皴を表した例という。
同じ吉重作の上の鬼瓦や、53Bと比べると、かなり動物っぽい。鼻が人間のものではない。
これも下前歯の並びに、中央に1本表される。

法隆寺鬼瓦49 文安3年(1446) 東院伝法堂大棟西端 初代吉重作
口からひげが出ているようにも見える。

『鬼瓦』は、文安5年(1448)10月上旬から11月中旬にかけて東院回廊と西院経蔵の平瓦(98)と面戸瓦(16)を作る。じつに71歳になったユウアミ、すなわち初代吉重は、「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ」と1枚の平瓦に書き残している。この年を最後に、ユウアミと書いた瓦も吉重筆とわかる銘文瓦もみられなくなる。西院経蔵の修理瓦の製作が、初代吉重の法隆寺における最後の仕事となった可能性がある。
西院経蔵の修理は文安6年も継続して行われた。これ以後の瓦に書かれた「橘吉重」や「瓦大工左右衛門次郎」などの銘文の字体は、それまでのものと異なり、漢字が多く、丁寧であるが、豪快さを欠いている。この「橘左右衛門次郎吉重」なる人物は、二代目吉重と考えられる。

法隆寺鬼瓦53B 長禄3年(1459) 東院南門東大棟 「寿王大夫」銘 二代目吉重作
『鬼瓦』は、口を開ける阿形。火焔宝珠が加わる。
「寿王大夫」は橘正重、国重、初代吉重と使ってきた伝統ある名であり、二代目吉重も時として使用したという。
45Aと同様、下前歯の並びに中央が1本になっている。


法隆寺鬼瓦53C 長禄3年 東院四脚門東面北降棟 二代目吉重作
『鬼瓦』は、頭頂部に梵字「サ」を置くという。
上下に巴文の軒丸瓦に挟まれて、額にも軒丸瓦状のものをつくり、ほとんど鬼面が見えない。その方が、下から見上げると威圧感があるのだろうか。
やはり前歯の並びは初代吉重を倣っている。

法隆寺鬼瓦54 文明13年(1481) 食堂の細殿大棟東端 二代目吉重作
『鬼瓦』は、二代目吉重の足跡がたどれるのは、この年までである。初代吉重の頃が、室町時代の法隆寺修造のピークだったこともあり、二代目吉重は概して小規模な修造にたずさわったといえようという。
頭頂部には無文の円形の装飾がつく。
鬼面は、初代吉重の永享2年(1430)に製作した綱封蔵東南隅鬼瓦39を参考にしたようにもみえる。

『鬼瓦』は、吉重の名が再び登場するのは、大永4年(1524)の綱封蔵の大規模な修理に伴う瓦作りの時である。
「吉重」銘が最後に登場するのは、江戸時代になってまもない慶長11年(1606)であるという。

             鬼面文鬼瓦7 法隆寺1

関連項目
鬼面文鬼瓦1 白鳳時代
鬼面文鬼瓦2 平城宮式
鬼面文鬼瓦3 南都七大寺式 
鬼面文鬼瓦4 国分寺式
鬼面文鬼瓦5 平安時代
鬼面文鬼瓦6 鎌倉から室町時代
瓦の鬼面文を遡れば饕餮
日本の瓦9 蓮華文の鬼瓦

※参考文献
「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂
「鬼・鬼瓦」 小林章男・中村光行 1982年 INAX BOOKLET
「法隆寺昭和資材帳調査完成記念 国宝法隆寺展図録」 1994 NHK