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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/04/10

鬼面文鬼瓦5 平安時代



『日本の美術391鬼瓦』(以下『鬼瓦』)は、平安時代前期に、平安宮や京内の寺院、南都の諸寺で用いられたのは鬼面紋鬼瓦で、基本的に前代の南都七大寺式を踏襲したものである。しかし、鬼面の盛り上がりが増し、眉に捩りを表現したり、笵で紋様を出したのちにヘラで線刻紋様を加えるようになったという。

平安宮豊楽殿の鬼面文鬼瓦 9世紀初 高37.5幅34.5㎝ 平安宮豊楽殿跡出土 京都市埋蔵文化財研究所蔵
『鬼瓦』は、周縁の内側に珠紋帯と巻き毛風の唐草紋をめぐらせ、中に奈良時代より肉づきのよい鬼面を配する。下顎にかろうじて牙が残る。眉の先端が巻き込み牛角のような感じとなる。耳は外縁部まで突き出る。西賀茂瓦窯で作られたもので、朝堂院や西寺からも同型式の鬼瓦が出土しており、それらには緑釉を施した例がある。
統一新羅の影響が窺えるという。
鬼瓦には今まではなかった唐草文が周縁を巡っている。
歯は6本。

唐草文は飛鳥時代以降軒平瓦に用いられてきた。
それについてはこちらこちら
そして、平安時代になっても、軒平瓦には唐草文がみられる。
『日本の美術66古代の瓦』(以下『古代の瓦』)は、古瓦の主流は都が延暦3年(784)京都・長岡京へ、更に延暦13年(794)平安京へと移るに従い京都の地にもたらされた。内裏の正殿である大極殿には緑釉の瓦が葺かれ、新設の寺院は京の南端、羅城門の両端に東寺(教王護国寺)と西寺の建立のみに限られ、これらは当初から造営に着手された。
瓦窯址や京内および両寺出土の瓦を見ると、その初現形式は、まさに東大寺式そのものであり、宇瓦においては、唐草文の蕨手が頭部の巻きを強くし、中心飾の対葉形の形式はおおうべくもない。次の段階では中心飾自体も、左右の唐草文に組み込まれてゆく傾向がうかがわれるという。
東大寺の軒平瓦には中心飾の三葉を芯とする、対葉形宝相華文(同書より)がみられるが、平安時代になると、早くもその形が崩れている。

1 教王護国寺(東寺)の均整唐草文軒平瓦 京都府教育委員会蔵
蔓草は東大寺のものに似ている。

2 平安宮址の均整唐草文軒平瓦1
同書は、中心飾のC字形にしても、唐草文の蕨手にしても、その先端が二葉に分裂する特徴がみえるという。
蔓草は葉などが省略される傾向がある。

3 平安宮址の均整唐草文軒平瓦2
同書は、宇瓦の唐草文を複線であらわし、蕨手形を、からみ合う二巴文とも見せるのは新しい試みである。中心に栗字を点ずるのは栗栖野瓦窯の製品たることを示しているという。 
蔓草自体が太く表される。二巴文にはなっていないが、豊楽殿の鬼面をめぐる唐草文に一番近い。

羅生門の鬼面文鬼瓦 平安時代前期(794-1068) 羅生門址出土 教王護国寺蔵
『古代の瓦』は、平安京の正門たる羅生門址から出土と伝える。出土後、年を経てのよごれで全体に黒ずんでいるが、目鼻や額、周縁の唐草文や連珠文は緑色、角状の眉や歯茎には褐色、歯牙には白色の三彩釉をほどこした華麗な鬼瓦であるという。
残存部分や色彩が異なるので別のデザインかと思っていたが、上の鬼瓦と比べてみると、同笵だった。
眉間から左右にぐりぐりと捩れた眉は、本来は角で、眉もあったのが、いつの間にか眉がなくなり、眉の代わりとなっていったのではと想像したくなる。

統一新羅時代の影響とはどんなものだったのだろう。

慶州皇龍寺の鬼面文鬼瓦 統一新羅時代(7-8世紀) 国立慶州博物館蔵
確かに統一新羅時代の鬼面には、まぶたも眉も角もある。角は捩れた先が枝別れしており、若い鹿の角を思わせる。角は捩れているというよりも、瘤状のものが並んだと言った方がよいくらいだ。その下の眉も同じような盛り上がりを連ねている。

『鬼瓦』は、一方、平安宮の内裏や大極殿からは、下顎の表現をまったく欠き、外縁にそって珠紋と車輻紋、または珠紋と巻毛状の唐草紋をめぐらした、新しい宮殿様式の鬼瓦が採用されたという。

平安宮式鬼面文鬼瓦 9世紀 高30.0㎝ 平安宮内裏跡出土 京都国立博物館蔵

『鬼瓦』は、周縁を複線鋸歯紋、連珠紋、面違輻状紋と三重に飾る。眉が上方に立ち上がりV字形をなす。先端が巻き込み、分枝をそなえ、鹿角のようである。統一新羅の影響が濃いという。
眉に捻れがなくなり、枝分かれというほどではないが、統一新羅の鬼面のように内側に枝分かれしているのではなく、外側に少しだけ出っ張っている。
眼尻からのびた複雑な形のものは何だろう。
こちらも歯は6本で、上の牙は外を向き、下の牙はなさそう。

平安京大極殿の鬼面文鬼瓦 9世紀 高45.0幅39.0㎝ 大極殿跡出土 京都文化博物館蔵
『鬼瓦』は、半球形に盛り上がった目、鼻、頬は人面を思わせるが、眉は外方から皴のように内に向かい、小さく巻き込む。上牙の内側に下牙が生えるという。
平安京の他のものは全く異質な鬼面文鬼瓦が出現した。眉間からでた角状の眉ではなくなり、こめかみから出た房状のものが、眉間の瘤の上で巻いている。
非常に高肉に作ってあるので、額の周りの巻毛が後方に寝ている。

東寺の鬼面文鬼瓦 9世紀 東寺出土
眉間から放射状に出る額の皴と、肉の盛り上がりが、七弁のパルメットのよう。最も近い顔の作りは南都七大寺式ということになるだろう。しかし、今までは4本だった前歯が8本くらいはありそうで、口角には斜め向きに生えた牙が上下にあるものの、あまり目立たない。
南都七大寺式についてはこちら
頭上には平城宮式のようなたてがみが表されるが、渦巻く勢いはすでになく、ただ、頭頂から左右に毛の束が靡いている程度だ。

『古代の瓦』は、次に頭に角1本をのせた鬼瓦が大阪・四天王寺に出現するという。

四天王寺の鬼面文鬼瓦 天徳4年(960)頃 高64㎝ 大阪・四天王寺講堂裏出土 
『古代の瓦』は、鬼面を高肉にあらわし、両耳を大きく立て、眉太く、眼球は蟹眼状に突き出していたらしいが、基底から折れ失せたのはおしまれる。大棟に用いられたものであろうが、天徳4年に一山焼亡後の再建時に造られたものと推定されているという。
目の上に盛り上がる眉と、角の根元の皴状のものが線刻される。上前歯には中央に切り込みがあり、巨大な割には牙の表現があいまいである。
周縁には連珠文、その外側には今まで見たことのない文様帯が巡る。

東大寺法華堂の棟鬼 10世紀 法華堂出土
『鬼瓦』は、外形は奈良時代以来のものを踏襲するが、鬼面はかなり退化しているという。
眉は表現されず、丸い目を長い睫毛が花弁状に囲んでいる。
上牙はイノシシのように上方向に曲がっている。その下に線刻で数本の曲線が描かれているのはヒゲだろうか。

『古代の瓦』は、平安後期の代表例は、京都・尊勝寺や、奈良・春日西塔址から残片が出土している。周縁に大粒な連珠文を飾り、鬼面は額や頬を高くあらわし、眉は太いが奈良朝伝来様式にかえっているという。

鳥羽離宮の鬼面文鬼瓦 12世紀末 京都市埋蔵文化財調査センター蔵
『鬼瓦』は、後期になると、口の上唇が下がり、迫力に欠けた顔になる。大きな歯に鋭い牙を持つが、団栗眼で眉じりが下がり、ふくよかな頬、額に2本のシワをよせた顔は、鬼というよりもむしろユーモラスな感じさえするという。
表面だけなのだろうが、顔の左右にひびのような線が走り、あまり丁寧には作られていないように思える。

社山古窯址出土の鬼面文鬼瓦 平安末期
『古代の瓦』は、さらに簡略化した終末期の典型であるが、やがて中世にはこうした中国的な鬼神面にかわって地獄の鬼をあらわす鬼瓦へと脱皮するのであるという。
これを中国的と言われても・・・

『鬼瓦』は、平安時代になって野屋根構造が採用されると、屋根の勾配が大きくなり、棟の高さも比例して大きくなった。古代建築の屋根は、垂木の上に野地板をはり、その上に土をのせ、瓦を葺く。この屋根の骨組みの上にさらに材を組んでもう一重別の屋根をのせると、屋根は全体に高くなって、威圧感を増す。この構造が野屋根である。これに対応して、隅棟や降棟ではその末端を2段構成にし、高くなり過ぎた棟の高さをいったん逓減する方策が編み出された。上段にはめこまれた鬼瓦を「二ノ鬼」、下段(棟端)を「一ノ鬼」と呼ぶという。

夢殿の一の鬼(法隆寺鬼瓦12) 12世紀、仁平2年(1152)または永万元年(1165)の修理瓦
『鬼瓦』は、法隆寺における最後の型づくりである。眉にはへらできざみ目。口端が下がり迫力に欠けるという。
眉は細い2本の凸線で表され、その上に太い一文字の盛り上がりがある。
かろうじて上の牙が残っているといったところ。

平安時代も、いわゆる鬼瓦とはほど遠い鬼面ばかりだった。

         鬼面文鬼瓦4 国分寺式←   →鬼面文鬼瓦6 鎌倉から室町時代

関連項目
鬼面文鬼瓦1 白鳳時代
鬼面文鬼瓦2 平城宮式
鬼面文鬼瓦3 南都七大寺式
鬼面文鬼瓦7 法隆寺1
瓦の鬼面文を遡れば饕餮
日本の瓦9 蓮華文の鬼瓦
日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦
日本の瓦7 複弁蓮華文、そして連珠文

※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 山本忠尚 1998年 至文堂