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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/02/03

三十三間堂4 風神雷神その後



三十三間堂は南北に118mもある細長い堂宇である。

その内陣両端に風神雷神が雲に乗って夥しい数の千手観音を守っている。が、それを一目で見ることはできなかった。

風神像 鎌倉時代、宝治年間(1247-48) 123㎝ 慶派作 三十三間堂内陣南の端
『三十三間堂の佛たち』は、サンスクリット語のヴァーユで、風天と訳される。『リグ・ヴェーダ』にでる神で、数頭立ての馬車で天空を駆け、敵を駆逐して名声や長寿、財宝や子孫を授けるとされ、天界の神酒・ソーマを好むことからソーマパーとも呼ばれた。
自在に吹きわたる風の力を神格化したもので、その尊容は全く日本化されており、二十八部衆には、後になって付加されたものという。後世の風・雷神のイメージを決定づけた傑作という。
後方に伸びているので分かりにくいが、一対の角が生えている。上唇は尖っている。
手首と足首に釧を付けている。
雷神像 105㎝ 北の端
同書は、その起源はインド最古の聖典という『リグ・ヴェーダ』に水神として登場するヴァルナだといわれる。ヴァルナは、のちに雨や水を司る龍神と混同され、さらに下って天候を司る雷神へと変化したという。後6世紀の制作という敦煌莫高窟の壁画に風神と共に描かれたのが最古というが、古代人の水に対する恩恵と畏怖心がこのような神格を生み出したのだろう。
『千手陀羅尼経』にでる「水雷火電」の語句から日本中世の俗信的空想によって創作した尊容という。巻雲に乗り、天鼓を打つ姿態は怒りととも大笑ともみえるという。
焔髪は上というよりも、後方にたなびいていて、来迎雲に乗って動くスピード感が現れている。そのためか、表現されていないのか、角は見えない。
やはり手首と足首に釧をつけている。
立体像なので当たり前かも知れないが、太鼓は胴を繋いで、鼓面を撥で叩けるようにつくられている。

『アレクサンドロス大王と東西文明の交流展図録』は風神について、その特色の1つは両手で風袋を持ち肩に担ぐ姿であるが、これはギリシャの風神の持つマント・ショールに由来する。前述したクシャーン朝の風神像は全てこのような布を手にしているので、この風袋の起源はギリシャにある。わが国の最も古い風神像は高野山の金剛峯寺が所蔵する経典の見返しに見られるものであるが、妙法院(三十三間堂)の風神、俵屋宗達の風神、酒井抱一の風神へと引き継がれていったという。
風神雷神の起源は前回辿った(それについてはこちら)。では、その後日本ではどのように風神雷神を表してきたのだろう。

『日本美術名品展図録』は、款記も印章もそなわらないこの作品が、俵屋宗達(1602-1630)の筆であることを疑う人はいない。
引手跡はないからもともと屏風の形で着想されたと思われる。そして、この屏風は、向い合わせに並べるのではなく、やや離して、少し折って一列に並べた時、最も効果を発揮する。こうすると風神と雷神はおのずと立体的に向き合い、総金地が微妙な色調の変化を示すことによって、無限空間のただなかに現れた鬼神のイメージが膨らんでくる(狩野博幸氏)という。
三十三間堂での風神と雷神の間の空間を、宗達が三十三間堂に行って感じた2体の像の間の距離感の現れではないかなどと思ったりしていた。
何故宗達が三十三間堂の風神雷神図を手本としたと思うかというと、風神も雷神も、三十三間堂の雷神像に似たギザギザの眉に描かれているからだ。

風神雷神図屏風 江戸時代(17世紀) 二曲一双 各縦169.8横154.5㎝ 紙本金地着色 俵屋宗達筆 京都・建仁寺蔵
『国宝の美02江戸時代の絵画』(以下『国宝の美02』)は、翻る天衣、わき立つ雲が2神のスピード感をいやがうえにも高め、見るものに迫ってくる。
自らが編み出した「たらし込み」という特殊な技法を用いて、本来は信仰の対象である神々を自由奔放に描いた宗達の最高傑作。
雷神の太鼓を繋ぐ円が枠外にはみ出したり、風神の風袋が枠ぎりぎりまで迫っていたりして、両神の左右に、一層広い空間を想像させるところにある。もちろん軽みのある雲の描写や、豊かな輪郭線、ユーモラスな表情なども一役かっているという。
どちらも手首と足首に釧をつけている。
しかし、連太鼓は太鼓として小さすぎるし、鼓面を繋いでいて撥で打つことができない。躍動感や大きな空間を見事に表現した宗達ともあろう者が、太鼓をこんな風に描くとは。

『日本の美術18宗達と光琳』は、宗達が扇屋俵屋の主人であったらしいことは、元和9年(1623)ころに出版された磯田道治著の仮名草子『竹斎』と、かれの多くの扇面画が残っていることとによって、ほぼ確実と考えてよい。扇面画の代表作は、醍醐寺三宝院の貼交屏風や御物の貼交屏風のなかに残っていて、この特殊な画面形式を巧みに活用した練達の腕前を見せている。私はこの扇面構図の性質を扇面性と名づけて、扇のカナメを中心とする放射性と彎曲性、それに右から左へ絵巻に似た横長の画面を進行的に描いてゆく進行性の3つの要素を考えているが、宗達ほどこの要素を巧みに活用しえた画家はいない。そして、腕にしみこんだ扇面処理の技術は、宗達の大画面においてみごとな構図を組みあげる基本となるのだ。
こうして、あの風神雷神図屏風が生まれてくるという。
宗達は、扇面にも雷神を描いていた。

雷神図 宗達筆 扇面貼交屏風8曲1双のうち 紙本着色 19X59㎝ 御物
同書は、風神・雷神とはいったい何ものなのか。それは仏画や仏像にしばしば姿を現わす。大和絵では絵巻物のなかに描かれた。『北野天神縁起絵巻』では、菅原道真の呪いによって清涼殿に落ちる雷神の姿がおどろおどろしく表現されている。宗達の原図はそこにある。かれはそれを扇面画で楼門を配して描くという。
あれま、三十三間堂の風神雷神像やなくて、『北野天神縁起絵巻』を手本にしていたの?
しかし、どう見てもこの雷神は笑っている。
両手に撥は持っているが、天鼓は分からない。描いているのだろうか。
また、他にも雷神を残していた。

雷神図 伊勢物語色紙 紙本着色 24.7X21㎝
同書は、伊勢物語図帖では芥川の鬼として扱っているという。
両手に撥は握っているが、天鼓は描いていないのでは。宗達にとって太鼓は雷神の動きを封じ込める檻でしかなかったのかな。

せっかくなので、『北野天神縁起絵巻』の雷神と比べてみると、

北野天神縁起絵巻 鎌倉時代、承久年間(1220-1224) 北野天満宮蔵
『続日本の絵巻15北野天神縁起』は、時平は-。黒雲の下、束帯姿も凛々しく太刀を振りかざす。長押のあたりに、無気味黒雲が湧き、雷神は、赤身の裸身に褌をはき、領巾をまとい、背には連太鼓を負う。怒髪天を衝く、異様な形相の鬼形は、奈良朝の「絵因果経」に、早くも遺例がみえる。菅公の怨霊が雷神となって、清涼殿に落雷した。朱塗りの柱・勾欄などが、黒雲におおわれているという。
黒雲の隙間に赤い炎がちらちらと描かれ、炎上を暗示している。
角は2本、しっかりと表されているが、枝分かれしていない。目の上や口の周りにトゲのような毛が生えているが、宗達の風神雷神のようなギザギザの眉や鬚ではない。
太鼓は文様まで丁寧に描かれている。
別の場面
同書は、清涼殿落雷の惨状。墨に白群の暈を添えた、無気味な雲。金泥を駆った稲妻が、直線的な光を放つ。飛び火が、四方に四散する。公卿や殿上人の面々がこの修羅場を逃げ惑う。華麗にして、凄惨なこの場面に、絵巻のもつ汲めども尽きぬ興味が、われわれの胸を揺さぶる。
これは、菅公16万8千の眷属中、第3番めの使者たる火雷火気毒王の仕業であった、と。しかし、恐ろしい執念であるという。
弘安年間に作製された北野天神縁起絵巻にも雷神が描かれている。

北野天神縁起絵巻 鎌倉時代弘安元年(1278) 北野天満宮蔵
『続日本の絵巻15北野天神縁起』は、黒雲の上を駆ける雷神の生態が、じつに躍動的に描かれているという。
承久本の雷神は暴れているといった表現だが、弘安本の雷神は駆けてきたような描き方だ。
角は根元の上で枝分かれしていて、白い眉がギザギザに描かれるところは、宗達の雷神図に似ているといえなくもない。そして、疾駆する姿は風神図に繋がるのでは。宗達はこちらの方を参考にしたのかも。
両手に撥を持つが、小太鼓は一つだけしか描かれていない。

さて、宗達の風神雷神図だった。
『日本の美術18宗達と光琳』は、ここにも扇面構図の影響を見ることができよう。風神と雷神は、左右各隻の端の上方に画面からはみだすように描かれて、扇の弧にそうように雷神の帯がひるがえっている。中央の空間はひろくあいているが、風神と雷神の重心はその中央下方へ集中して放射線を逆にたどる。扇の要は、どこかへ飛び去ってしまいそうな両神をぐっと引き寄せているようで、この図のあふれるばかりの大きさは、また運動感はそこから発しているという。

雷神図
三十三間堂の雷神像と比べると、雷太鼓を連ねた弧も、太鼓そのものも小さくなっている。
髪は雷神像のように焔の束のようなものから、風に棚引くような髪になっているが、2つに枝分かれした2本の角が出ている。眉と顎髭に細かいギザギザがある。
上から見下ろすのは同じである。
風神図
枝分かれした大きな角が1本、額の中央に生えている。眉やヒゲもギザギザに描いている。
三十三間堂の風神とは異なり、下方を睨み付けることはない。前方の雷神に向かって走っているだけのよう。
宗達は、金箔の地にたらし込みで湧く雲を表している。
『国宝の美02』は、たらし込みは宗達が編み出した技法で、絵具が乾かないうちにより水分の多い絵具をたらし込むことで独特のにじみを生み出す。ふわっとした雲の雰囲気が見事に表現されている。衣紋や筋肉の隆起に見られる彫塗風輪郭線は、鎌倉時代に生み出された技法で、宗達が本作で復活させたという。
肥痩のある輪郭線だけでなく、腕や脚に見られる短い線も、筋肉の盛り上がりを表し、立体的にさえ感じられる。

『日本美術名品展図録』は、尾形光琳も、さらにそのあとの酒井抱一も、この作品を模した図を造っているのは、本図が宗達の芸術的営為の総体を象徴する作品と確信したからである。その確信と、我々の宗達画に対する様式論的帰一とにはいささかのズレもないという。

風神雷神図 江戸時代(18世紀) 紙本金地着色 縦156.0横172.2㎝ 尾形光琳筆 東京国立博物館蔵
『国宝の美02』は、この宗達屏風の両神を透き写しにした光琳作品では、両神の位置をぐっと下げ、雷神の太鼓の円が画面に収まり、その上にさらに金地の余白までできている。そのため両神が画面の枠外から走ってきたという動きがまったくない。対象物を枠の中に収め、そこに充分な余白を取るという、江戸狩野様式の構成法が取られている。雲の描写はうまくゆかず、べったりとしてしまったため浮遊感もない。目線もお互いを見つめる形になり、あまり見るものに迫ってこない。先達に迫りきれない光琳の苦闘をうかがわせる(安村敏信)という。
確かに、宗達の枠の外にまではみ出すような構図は、桃山の障壁画を彷彿とさせる気宇の壮大さがある。宗達が活躍したのは江戸時代だが、江戸時代が始まったばかりの17世紀前半なので、京の都の文化は、まだまだ桃山時代の余韻が残っていたのだろう。

風神図 
安村氏のいう通り、わずか10㎝ほどだが、風袋は屏風の枠内に収まりきっている。描くには僅かな差かも知れないが、見る者に与える違いは大きい。 
雷神図
真似て描こうとすると、線に力がなくなってしまう。宗達の風神は張りのある躰をしているが、光琳の雷神は肉がたるんだような印象を受ける。

風神雷神図 江戸時代(19世紀) 酒井抱一筆 出光美術館蔵
『国宝の美02江戸時代の絵画』は、抱一は光琳画だけを模写し、宗達画は見ていない。雷神を上へ、風神を下にずらし、両神の対決姿勢を鮮明にしている。彩色も明るく、恐ろしい神というより鬼に近い印象を与えるという。
『日本の美術188酒井抱一』は、抱一には光琳の作品の模写的性格の大作が幾つかある。しかしそれらの作品から受ける印象ははじめから器用な作図構成が先立ち、宗達の原図による光琳の風神・雷神図の場合にも似たような傾向が指摘できるが、いずれもさらりと、ときには戯画的に軽くまとめあげたところがあるという。
迫力の感じられない風神雷神になってしまった。
雷神図
こちらは戯画と言ってよいような雷神である。風神と目を合わせているように見える。
たらし込みの中に細い筆で岩のようなものが描かれているような。 

         三十三間堂3 風神雷神の起源

関連項目
三十三間堂1 風神雷神の像
三十三間堂2 雷神のギザギザ眉の起源

※参考文献
「三十三間堂の佛たち」 飛鳥園/小川光三 2011年 三十三間堂
「日本美術名品展図録」 東京国立博物館・京都国立博物館編 1986年 日本テレビ放送網株式会社
「週刊朝日百科 国宝の美02 絵画1 江戸時代の絵画」 2009年 朝日新聞社
「日本の美術18 宗達と光琳」 水尾比呂志 1965年 平凡社
「続日本の絵巻15 北野天神縁起」 小松茂美 1991年 中央公論社
「日本絵巻大成21 北野天神縁起」 小松茂美 1978年 中央公論社「日本の美術186 酒井抱一」 千澤楨治 1981年 至文堂