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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/06/18

前屈みの仏像の起源



X字状の天衣や瓔珞を探していて、古い仏像に頭部を前に突き出したような、前屈みになっているものが目に付いた。

弥勒菩薩交脚像 砂岩 高44㎝ 河北省曲陽県修徳寺遺址出土 北魏前期 河北省博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、頭に宝冠をつけ、両側に冠繒を長く垂らした菩薩が、2頭の獅子座に交脚して坐し、胸前で合掌する。菩薩の四角く丸い顔立ちやふとりじしの体軀に、北魏前半期の特徴が見出される。交脚菩薩は兜率天で下生を待つ弥勒菩薩を表し、同時期の雲崗石窟でも多くの弥勒菩薩が造像され、未来仏に対する信仰の隆盛さを物語っているという。
頭部が大きく、それが前に突き出して表されている。
獅子は後ろ肢が表されず、斜め前に向かっていて、敦煌莫高窟275窟交脚弥勒像に持する獅子に似ている。
菩薩交脚像龕 砂岩 31.5㎝ 北魏時代前期 大阪市立美術館(山口コレクション)蔵
『中国の石仏 荘厳なる祈り展図録』は、交脚の弥勒菩薩を中心に、それに視線を集める供養菩薩と獅子とが龕内に立体的に構成される。こうした尊像の構成法に加え、各部の形式や伸びやかな造形感覚から、太和18年(494)の洛陽遷都以前、北魏前期の造像とみられるという。
少し猫背になっている。
獅子は菩薩側に頭を向けている。
菩薩交脚像 砂岩 48.0㎝ 北魏時代、5世紀末期
同展図録は、宝冠に化仏を表し、交脚に坐す菩薩像。目の切れ上がった鋭い面差し、頭部をせり出し、施無畏印の右手をつき出して、前方に迫りくるような姿が印象的である。両肩を丸く覆う天衣、ガンダーラ起源の双獣胸飾など河西の初期造像や洛陽遷都以前の雲崗の交脚像の形式を基本とし、その作風から5世紀末期、陝西省以西の造像と思われるという。
この像は敦煌莫高窟275窟交脚弥勒像と同じく、右手は施無畏印、左手は与願印となっているが、275窟像は背筋が真っ直ぐなのに、この像は上の2点と同様に、頭部を前につき出して、猫背のように表されていることだ。
獅子は寝そべっている。
如来坐像 石造 西安市王家巷出土 北魏・和平2年(461) 西安碑林博物館蔵
『北魏仏教造像史の研究』は、太平真君7年(446)太武帝の排仏の詔が発せられ、文成帝が即位するに至って、ようやく仏教復興の詔が発せられた、興安元年(452)12月のことである。
袈裟を涼州風の偏袒右肩に着けており、河北省正定の太平真君元年銘如来坐像が旧来の通肩で表されているのと大きく異なっている。
大きめの頭部に比べて身体や腕が細く、膝は極端に薄くなっている。また、着衣に施された平行線の衣文は独特で、腹部も腕も等間隔に硬い線を並べ、涼州系の盛り上がった柔らかい線とは全く異なる感覚が現れている。この衣文表現は5世紀後半から6世紀前半にかけて、長安一帯の仏教や道教の造像に共通して見られるという。
マトゥラー仏の偏袒右肩とは異なり、右肩に大衣が懸かるものを涼州式偏袒右肩と呼ぶが、それが仏教復興後間もないこの像に、早くも採り入れられている。
修徳寺遺址出土の弥勒菩薩交脚像と同様に、頭部が大きく、前に迫り出し、禅定印を結んでいる。
獅子は元はあったかも知れないが、現在ではわからない。
朱□(文字不明)如来坐像 石造 北魏、太平真君元年(440) 河北省正定県文物保管所蔵
これが先述のガンダーラ風の通肩で表された太平真君元年銘の如来坐像。排仏の目をかいくぐって残された貴重な像だ。
やはり首が前に出ている。
獅子は表されていなかったかも。
金銅如来坐像 高11.8㎝ 五胡十六国時代、5世紀 東京藝術大学蔵
『小金銅仏の魅力』は、両獅子を台座両側脇に表す獅子座もガンダーラ的である。
中国風の坐像タイプで大量生産されたと思われる小像がわが国にも多く伝えられている。中でも 東京藝術大学蔵は愛らしい本体と共に光背が残されているのが貴重で、光背には両脇侍僧形像と両飛天を取り付け、更に天蓋を備えるための柱が頂上に残されている。中尊の大衣の衣褶が規則的にU字形を繰り返す中国風であるのに対し、台座両脇には獅子、中央には線刻で蓮華を表すなど、フォッグ美術館のガンダーラ式坐像の形式も残している。
その単純で堅固な構造は五胡系遊牧民族の移動には向いていると思われるという。
ひどく前屈みになっている。
獅子は台座の装飾のように表される。
同像 横向きで光背をはずした写真
同書は、これらの像は殆ど、その原流の大像と同じく後頭部に枘を同鋳しているが、東京藝術大学の像の枘は後頭部にはなく、大きな光背を支えるために、首の後ろと台座の後方との二ヵ所に同鋳されているという。
五胡十六国時代の仏像は小さく、持ち運びに便利だった。金銅製というのも持ち運びに耐える材料といえる。この時代のこのような金銅仏は、古式金銅仏と呼ばれている。
このように大きな光背を取り付けるために、この像は前屈みの姿勢で表された。それが石造になって、光背を支える必要がなくなった仏像にも受け継がれていったので、北魏前期の石造仏も前屈みの姿勢となったのだろう。
石造の台座には欠失してしまったものもあるが、ほぼ一対の獅子が侍している。しかも、獅子の姿が、寝そべったもの、如来を振り返ったもの、如来を守ろうとしているもの、お座りをしているものなど、皆違っていて面白い。
その起源はクシャーン朝のマトゥラー仏にある。ガンダーラにも伝わって、とても動物とは思えない造形もあったりして、いつか台座の獅子を辿ってみたいものだ。

関連項目
ボストン美術館展8 法華堂根本曼荼羅図4 容貌は日本風?

※参考文献
「中国★文明の十字路展図録」 曽布川寛・出川哲朗監修 2005年 大広
「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」 1995年 大阪市立美術館
「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ