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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/07/08

偏袒右肩の新羅仏も中国から?


今回実際に見たものでは、掘仏寺(クルプルサ 굴불사)の四面石仏(サミョンソップル)の東面に浮彫された薬師如来坐像が、胸部が剥落しているのだが、両腕に着衣の表現がないので、マトゥラー式の偏袒右肩だろう。左掌になにか丸い物をのせるという変化は、石窟庵の如来坐像以後と思われる。 南山三陵渓線刻六尊像のうち、左側にある三尊立像の中尊がマトゥラー式の偏袒右肩のように見える。時代は『慶州で2000年を歩く(以下『慶州で』)』 は、8世紀の新羅全盛期になると磨崖仏もふえる。これを代表するものが、南山三陵渓線刻六尊仏である。韓国の線刻磨崖仏のなかでも1、2を争う作品で、幅4mほどの2つの自然の岩壁に3体ずつ彫られているということで、石窟庵の如来坐像以前か以後かはわからない。  南山七仏庵の浮彫三尊像の中尊もマトゥラー式の偏袒右肩である。『世界美術大全集東洋編10』によると、8世紀の初めには、降魔触地印釈迦如来である慶州南山七仏庵磨崖三尊仏像が造られている。しかし、丸彫りで造ったのは石窟庵の本尊が初例であるという。ということはこちらの方が早いということやね。  同書には断石山磨崖仏群の図版があった。古新羅とも呼称される三国統一以前の新羅では、花崗岩仏は慶州に集中しており、数も多い。南山仏谷の石造如来坐像をはじめ、  ・・略・・  断石山神仙寺磨崖仏群などがあげられるという。
南山仏谷の石造如来坐像は仏谷龕室石仏座像で、『慶州で』は南山最古の7世紀前半とし、また、断石山神仙寺磨崖仏は、新羅の磨崖仏のなかでも最古の7世紀前半のものと考えられている。断石山の名前は、金庾信が修行中に大きな岩を切り、山のように積んだという伝説にちなんでいる。人工的に切り取られた幅3mほどの「コ」の字型をした狭い岩壁全体に磨崖仏が彫られている。仏像の配置は無秩序で、彫りも稚拙であるという。最古に惹かれて見学したかったが、日程的に無理だった。磨崖仏の中に2体、偏袒右肩の立像が彫られているが、涼州式かマトゥラー式か、よくわからない。そして、石仏と金銅仏は違うが、小金銅仏もまた大きな金銅仏とは表現がことなっている。しかしマトゥラー式偏袒右肩なので、この像をとりあげた。

如来立像 銅造鍍金 像高31.0㎝ 新羅(600年頃) ソウル国立中央博物館蔵
『世界美術大全集東洋編10』は、左膝を屈して左側の臀部を強く張り出し、如来立像としては珍しい三曲姿勢をとっている。  ・・略・・  グプタ時代におけるサールナート地方の如来像は三曲姿勢をとるようになり、南インドとスリランカでその例が見られる。  ・・略・・  この像には北斉・北周仏のモデリングが見られ、600年前後の作と推定されるという。 それから、中国の仏像の影響を受けた最後の時期ではないかと思うのだが、則天武后の時代に造られた浮彫にもマトゥラー式の偏袒右肩があった。

浮彫三尊像 石造 通高109.5㎝ 周・長安年間(701~704) 西安市宝慶寺 東京国立博物館蔵 
顔や頭髪の表し方などかなり異なっているが、右手の降魔触地印や左手の置き方など似ている。 このような仏像の影響があって、石窟庵の如来坐像へと統一新羅独自の様式が完成したのだろうと思うような浮彫やなあ。

※参考文献
「慶州で2000年を歩く」(2003年 武井一 桐書房)
「世界美術大全集東洋編4隋・唐」 (1997年 小学館)
「世界美術大全集東洋編10高句麗・百済・新羅・高麗」 (1998年 小学館)