ホシガラスが埋めて食べ忘れた種のように、バラバラに芽を出した記事が、枝分かれして他の記事と関連づけられることが多くなった。 これから先も枝葉を出して、それを別の種から出た茎と交叉させ、複雑な唐草に育てて行きたい。
2008/02/27
山田寺といえば仏頭
飛鳥資料館の2007年秋期展は『奇偉荘厳 山田寺』だった。 同展図録によると、治安3年(1023)には、藤原道長が高野山と南都諸寺参詣の途上に山田寺を訪れ、金堂内の様子を「堂中は以て奇偉荘厳にして、言語云うを黙し、心眼及ばず」と記し、 ・・略・・ 驚嘆ぶりを伝えている(『扶桑略記』)という道長の言葉が特別展のタイトルだった。望月の欠けたることのなしと言ったあの道長をして「奇偉荘厳」と言わしめたほどの金堂はとうになくなり、講堂跡の西北部に観音堂が建っている。鬼瓦の銘文によれば、元禄15年(1702)の再建だけが残っている。
発掘調査で金堂の壁画断片が発見されたが、何が描かれていたのかよくわからない。仏像の衣文だろうか。そして、仏頭は興福寺にある。なぜかというと同展図録によると、興福寺は、治承4年(1180)平重衡の南都焼打によって、伽藍の大半を焼失した。すぐに復興工事が始められ、東金堂も文治元年(1185)頃には再建されたが、本尊の造立は難行し、仏師の選定などもめていたという。『冊子興福寺』によると、文治3年(1187)東金堂衆が無断で仁和寺宮領の山田寺に押しかけ、講堂の金銅丈六薬師三尊像を運び出し、完成していた東金堂の本尊として奉安するという暴挙が行われた。事件は和解されたが、応永18年(1411)に東金堂が焼亡するまで本尊として祭祀されたという。この仏頭は、道長が驚嘆した金堂にあったのではないし、薬師如来だったのだ。 同展図録によると、興福寺に持ち去られた仏像は、幾度か災害に見舞われ、本尊も頭部を残して失われた。発掘調査によれば、金堂・塔は12世紀後半から末頃に焼亡しており、興福寺の東金堂の僧乱入の時期にも重なる。講堂も中世以前に焼失しており、興福寺僧の乱入時に山田寺が焼き討ちされた可能性も指摘されているらしい。
『冊子興福寺』によると、東金堂とともに被災し、幸い残った頭部が応永22年(1415)に再興された現東金堂本尊台座の中に納められ、昭和12年に発見された。造立年代が明らかであり、白鳳彫刻の基準作として高く評価されるという。 同展図録によると、『上宮聖徳法王帝説』に「誓願して寺を造り、三宝を恭敬す。13年辛丑春3月15日、浄土寺を始む、と云々」と記される。「浄土寺」とは山田寺の別名に他ならない。「13年」は舒明13年(641)を指す。発願者は蘇我倉山田石川麻呂。蘇我氏の一族であるが、大化改新の際には本宗家の蝦夷・入鹿を滅ぼすことになる。石川麻呂は山田の地を本拠地としており、そこに一族の寺を造営しようとした。 ・・略・・しかし、大化5年(649)石川麻呂は謀反の疑いをかけられ、造営中の金堂前で自害した。 ・・略・・
本格的に工事が再開するのは天武朝(672-685)に入ってのことである。遠智媛の娘で、石川麻呂の孫にあたる皇后菟野皇女(後の持統天皇)の力が特に大きかったと考えられる。 ・・略・・ 天武7年(678)には丈六仏像が鋳造され、天武14年(685)には、石川麻呂37回目の命日にあたる3月25日に開眼法要が営まれたという。
そのような山田寺は、現在は発掘調査の後、当時の伽藍配置を示す盛り土と、いくつかの説明パネルで当時を表していて、そこでは子供たちが走り回っていた。駐車場の近くの復元図には塔は五重塔とされている。 同展図録では、天智2年(663)塔を構える。天武2年(673)塔の心柱を建てる。心礎に舎利8粒を納めると「塔」とだけ書かれている。 歩き回ってもこんなにはっきりとはわかりません。
※参考文献
「奇偉荘厳 山田寺展図録」(2007年 飛鳥資料館)
「飛鳥京絵図」(明日香村発行 やさしい考古学)