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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/09/06

高昌国で玄奘三蔵が説法をした講堂は


高昌故城の観光で、ロバ車で到着したところは南壁に近いβ寺院址の前だった。 内城壁址の陰にいるのは、帰りのロバ車を待っている人たち。β寺院と名づけられた遺跡は、その場にいると、このような、壁に囲まれたお寺の境内として捉えることができないくらい広大だった。不思議なことに、右側にはラクダに乗って記念写真を撮るコーナーまであった。もちろん富士フイルムではなく、中国製のフィルムである。日乾しレンガを敷き詰めた参道をまっすぐ西に向かうと大塔址がある。
大塔の周壁は後世付け加えられたものらしい。大塔そのものもかなり修復が進んでいるようだ。しかし、側面にまわると、仏龕には仏像もなく、土台の日乾しレンガが現れているところもある。 塑造の仏像はあまりにも風化が進んでいた。頭部があったらしいことは、残った土に彩色されている光背らしきものからわかる。他にわかるのは、塑像を支えていた棒状のものを差し込んだ穴、そして塑像の残骸らしきものくらいだ。 大塔の参道が右に分かれ、その先にあるのが講堂址。入っても良いらしい。
高昌故城及び講堂址はグーグルマップでこちら  これが玄奘三蔵が講義を行ったとされている講堂だ。『シルクロード第5巻 天山南路の旅』 で陳舜臣氏は、
この高昌の遺跡に立つと、奇異の念にうたれる。ここは古くから漢族が移住し、漢族王朝が栄えた土地だった。それにもかかわらず、この遺跡には、漢ふうの雰囲気はまったくないのである。正方形の基台のうえの建造物は、ドームをもっているが、これはあきらかにイランの様式なのだ。あるいは、階段をもつ塔があり、インド様式であることを示している。
漢ふうの建物ははじめからなかったのか?それとも木材を用いた漢式建造物は、早くからこわされてしまったのか?  ・・略・・
住居については、イランやインド様式のほうが合うと、この地の漢族も認めたにちがいない。乾燥していること、木材が豊富には得られないことなども、その理由の一つであろう

と、高昌故城の建物、インド様式の大塔やイラン様式の講堂について述べている。ところで、このような建物を表したであろう壁画が敦煌莫高窟にある。
1つ目は盛唐期(712-781年)の第45窟南壁「観音経変」西端に半分だけ描かれている。実はこれは建物の端に編み残し状のものが出ているので、葦などの植物を編んで作ったものだと勘違いしていたので、妙な形だとは思っていても、長い間この講堂と結びつかなかった。 2つ目も盛唐期の第23窟で、窟頂南披「法華経変観音普門品」西端に描かれている。『中国石窟 敦煌莫高窟3』の解説には「土築成的監獄」となっていて驚いた。 高昌国ではお寺の講堂に造られた建物の形が、敦煌の盛唐期には監獄になってしまうとは。共通しているのは上部がドームのようになっていないことだ。だから、この講堂がかつてはドームが載っていたのではないことがわかる。
陳舜臣氏がイラン式という表現をしているということは、現在のイランに、このような建物が残っているということだろう。


関連項目
高昌国のペルシア風建物はソグド人?
高昌故城の講堂の起源



※参考文献
「シルクロード第5巻 天山南路の旅」 1981年 日本放送出版協会
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社