高昌故城の観光で、ロバ車で到着したところは南壁に近いβ寺院址の前だった。 内城壁址の陰にいるのは、帰りのロバ車を待っている人たち。
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高昌故城及び講堂址はグーグルマップでこちら
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この高昌の遺跡に立つと、奇異の念にうたれる。ここは古くから漢族が移住し、漢族王朝が栄えた土地だった。それにもかかわらず、この遺跡には、漢ふうの雰囲気はまったくないのである。正方形の基台のうえの建造物は、ドームをもっているが、これはあきらかにイランの様式なのだ。あるいは、階段をもつ塔があり、インド様式であることを示している。
漢ふうの建物ははじめからなかったのか?それとも木材を用いた漢式建造物は、早くからこわされてしまったのか? ・・略・・
住居については、イランやインド様式のほうが合うと、この地の漢族も認めたにちがいない。乾燥していること、木材が豊富には得られないことなども、その理由の一つであろう
と、高昌故城の建物、インド様式の大塔やイラン様式の講堂について述べている。
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1つ目は盛唐期(712-781年)の第45窟南壁「観音経変」西端に半分だけ描かれている。実はこれは建物の端に編み残し状のものが出ているので、葦などの植物を編んで作ったものだと勘違いしていたので、妙な形だとは思っていても、長い間この講堂と結びつかなかった。
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陳舜臣氏がイラン式という表現をしているということは、現在のイランに、このような建物が残っているということだろう。
関連項目
高昌国のペルシア風建物はソグド人?
高昌故城の講堂の起源
※参考文献
「シルクロード第5巻 天山南路の旅」 1981年 日本放送出版協会
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社