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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/11/30

日本の魚々子の変遷 


正倉院宝物で唐から請来した器の魚々子は細かく精緻に打たれていたが、日本制作と思われるものは魚々子が疎らだった。
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正倉院宝物以外にも魚々子地のものがある。

舟形光背表面 東大寺二月堂  
『日本の美術330飛天と神仙』は、二月堂本尊の金銅十一面観音(聖観音ともいわれる)立像(秘仏)に付属していたものとされ、その制作は天平宝字期(8世紀後半)といわれているという。
魚々子は唐の優品のように横に整然と並んでいるわけではないが、魚々子がびっしりと穿たれ、隙間がなくなっている。
おそらく工人の技術が向上した結果だろうが、これが8世紀後半に制作されたものということで、魚々子の年代判定の基準となるものだ。他に同時期に作られたものは東大寺に多い。

飛天 金銅八角燈籠中台側面 東大寺大仏殿 8世紀後半
『日本の美術330飛天と神仙』は、大仏殿正面に据えられている八角燈籠は開眼供養時頃の遺品とみられている。燈籠中台側面に、宝相華に混じって飛翔する天人像が表されている。魚々子地に線刻された姿は片手に華盤を持ち散華するさまを表現しており、片膝を曲げて飛遊するかたちは法隆寺金堂壁画像を想起させるという。
飛天そのものはよくわからないが、間地は魚々子でびっしりと埋まっている。大仏の開眼供養は天平勝宝4年(752)なので、二月堂本尊の舟形光背と同時期に制作されたものだろう。
銀鍍金狩猟文小壺  東大寺金堂鎮壇具 8世紀
総高4.5
『日本の美術437飾金具』は、騎馬人物が鹿を追う狩猟文様は唐の金銀器にしばしば見るものだが、細部表現に省略が見られ、間地の魚々子も密度が少々粗いことから日本製とされている。しかし、唐代金銀器も圧倒的に細密な彫金を行うのは唐前半期のもので、8世紀頃から、やはり粗い彫金ものが目につきだす。したがって東大寺銀壺の制作地の彼我を、彫金作風のみで決めるのは難しい。むしろ、宝冠や正倉院南倉の磬形に見る魚々子地唐草も考え合わせ、8世紀半ばにあって、日本の金工工房も中国工房と大差ない作行を持ち得ていたことの方が重要であろう。天平勝宝6年、唐僧鑑真が仏具を携え工人を従えて来朝し、盛唐後期の美術を伝えた、との三宅久雄氏の指摘がある。そのような事態が断続的に生起したと考える方が、古代日本の工芸の推移を説明しやすいと思う。
日本の飾金具の歴史の中で、上に見た品々が、第一の盛期をなすことの意味背景はここにあるという。
正倉院南倉の磬形(部分)はこちら
鑑真さんは、翻波式衣文と塊量感のある体軀が特徴で、貞観仏とも呼ばれる平安前期の仏像へと繋がる造像様式を伝えているが、密に並ぶ魚々子もまた日本に伝えていたのだ。
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矩形唐草紋金具 薬師寺 
こちらの矩形金具は時代が記されていないが、魚々子の並び方から見て、上の3点及び正倉院南倉の磬形金具などと近い時期に制作されたものだろう。
その点、正倉院南倉に収蔵されてきた金属器で魚々子のまばらなものは、これらよりも以前に作られたと思われる。
たとえば、金銅小盤など。
では、それらが正倉院に献納された時期は何時頃だろう。
『第64回正倉院展目録』は、天平勝宝8歳(756)5月2日、聖武天皇は56歳で亡くなった。七七日の6月21日、光明皇后は聖武天皇が大切にしていた六百数十点の品々と六十種の薬を東大寺の大仏に献納した。これが正倉院宝物の始まりである。
南倉には東大寺の宝物が納められている。天暦4年(950)には東大寺羂索院双倉の納物が南倉に移された。永久5年(1117)には白河法皇の命によって南倉宝物の点検がおこなわれ、点検記録「綱封蔵見在納物勘検注文」が作成された。これによると天平勝宝4年(752)の大仏開眼会をはじめとする法会で使用された仏具類が多い。大仏開眼会の関連品は、光明皇后の献納以前から南倉に納められていたと考えられているという。
南倉には、大仏の開眼供養や聖武天皇の遺品だけが所蔵されていたのではなく、収蔵された時代もばらばらだ。

そして、疎らな魚々子は何時頃、何処で制作されたのか。
唐の魚々子が緻密なものであるとしても、その初期のものには、日本や百済などと同じように疎らな魚々子地がある。

青銅鍍金走獣文珌 隋~唐初(7世紀、隋は581-618年) 
高5.2㎝幅7.2㎝  
まばらに魚々子が刻まれている。
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、魚々子は全体は方形で、方形のなかに円い魚々子がある。主文の走獣の形式から隋あるいは唐時代初期と判断できるが、魚々子を打った例としてはきわめて早い1点であるという。
確かに獣より前方の魚々子は丸いものが目立つが、腹部の下は方形の魚々子が多く見られる。魚々子の最初期は丸だけでなく、方形の魚々子があったのは興味深い。 
それだけでなく、百済や日本で制作されたもの同様、魚々子は疎らに打たれている。 
韓半島でも制作年代のわかる魚々子地の作品がある。

金銅製舎利外壺 弥勒寺西九重石塔発見 639年頃
『第64回正倉院展目録』は、弥勒寺址西九重石塔の舎利荘厳具には金製舎利奉安記があり、これより弥勒寺は百済王后佐平沙宅積徳の女を施主として伽藍が造営され、639年に舎利を奉迎したことが見えることから、金銅製舎利外壺もそれに合わせて製作されたと考えることができるという。
方形の魚々子は見当たらないものの、魚々子が疎らに彫られていることがわくわかる。
隋末唐初の魚々子誕生の時からさほど隔たらない頃に、百済に魚々子の技術が伝播されたのだろう。
日本でも制作時期が判明している貴重な作品もある。

飛天 銅板法華説法図 天武14年(686) 奈良・長谷寺
『日本の美術330飛天と神仙』は、銅板法華説法図は、天武14年(686)作とする説が有力であるが、この下縁に奏楽する天人坐像が表されている。略画風の線刻ながら、横笛・簫・琵琶や種々の鼓を奏でる天人像の表現は龍門初唐期の万仏洞などに類例があり、のちに隆盛をみる奏楽菩薩像の先駆としても注目されるという。 
魚々子地については記述がないが、かなり疎らで、日本で作られた魚々子地の最初期のものとみなして良いだろう。
この作品は日本で制作されたものとされているが、そのためには、当時魚々子を打つ技術のある渡来人や魚々子の彫られた請来品が不可欠だっただろう。
この頃に日本に魚々子の技術を伝えたのは、隋または唐だろうか、それとも百済だろうか。

関連項目
第64回正倉院展7 疎らな魚々子
第64回正倉院展6 密陀彩絵箱の怪魚はマカラ?
第64回正倉院展5 今年は怪獣が多い
第64回正倉院展1 瑠璃坏の輪っか
第62回正倉院展4 大きな銀壺にパルティアンショット
日本に金銀山水八卦背八角鏡より古い魚々子地があった
魚々子の起源は金粒細工か
中国の魚々子と正倉院蔵金銀八角鏡の魚々子
唐招提寺の木彫仏にみる翻波式衣文

※参考文献
「第64回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2012年 財団法人仏教美術協会
「第56回正倉院展目録」 奈良国立博物館 2004年 奈良国立博物館
「第37回正倉院展目録」 奈良国立博物館 1985年 奈良国立博物館
「日本の美術330 飛天と神仙」 林温 1993年 至文堂
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂
「日本の美術437 飾金具」 久保智康 2002年 至文堂
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 百橋明穂・中野徹 1997年 小学館