この厨房について『Architect Sinan His Life, Works and Patrons』は、1460年にメフメト二世の命により建てられたトプカプ宮殿は、建設当時、宮殿の住人や使用人からなる大勢の人々にサービスを提供する三つの大きな中庭を中心に発展した。宮殿の厨房は、宮殿の第二の中庭にあり、三つの門のある壁で第二の中庭から隔てられていた。
宮殿の巨大な厨房は、使用期間中は常に火災の危険にさらされていたが、最終的には 1574 年6月に発生した大火事で焼失した。マトバ・ウ・アミレ(Matbah-ı Amire 宮殿厨房)でケバブの肉を焼くときに使われた油に引火したことが原因だった。
セリム二世の統治の最後の年に起こった火災の後、スルタンは新しい厨房の建設を命じ、建築家スィナンをその職に任命した。1574 年7月に開始され、9月にはエディルネのセリミエ・モスクの建設に携わる労働者の半数を採用するよう命じる勅令も出された。1575年3月に完了した。その期間中にセリム二世が亡くなり、代わりにムラト三世が即位したということで、ここもミマールスィナンが建てたものだった。
エディルネのセリミエジャーミイについては後日
トプカプ宮殿と旧市街のモスクの空撮 『Architect Sinan His Life, Works and Patrons』より
宮殿以外 ➑リュステムパシャジャーミイ ➒スレイマニエジャーミイと複合施設
同書は、スィナンは、火事が急速に燃え広がったのは厨房で働く人々の住居が厨房に近すぎたためだと考え、まず住居と厨房の間の道路を拡張し、その目的のために確保した追加の土地で建設を開始した。
スィナンが建設した新しい厨房は、異なるグループの人々の食事を作る八つの独立したスペースで構成されていた。これらのユニットは、宮殿にいる人々の階級に応じて食事を作った。南端のユニットはスルタンの食事、その隣のユニットは皇帝の母、ヴァリデ・スルタンの食事を提供した。次にハレムの住民、その他の職員の食事の準備を担当するユニットがあった。スィナンは敷地内に建設した各厨房をドームで覆い、その上に乗る10組の煙突は厨房に立派な外観をもたらした。。
当時、薬を準備する任務のため厨房を頻繁に訪れていたドミニカ・イエロソリミトは、18人のシェフと4人の主任が管理し、300人がそこで働いていたと記録に残しているという。
内側の煙突は高く、外側のものが低いのは何故? 低い煙突のドームは八角形のドラムの上に築かれているが、高い煙突のドームは円錐形。ミマールスィナンは料理の種類によって、天井の形を変えたのかな?
トプカプ宮殿の厨房 Architect Sinan His Life, Works and Patrons より |
実際の厨房は長々と続いて、扉口も沢山あるがこの日はほとんど閉まっていた。ドームや煙突を写したくても私の身長ではこの程度。
右手も長い建物があったが、従業員たちの住居だったとは。
上のドームは外側の低い煙突の方。ペンデンティブで上に円形を導いているが、外側だけ八角形にしているのだろうか?
青花の壺類
青花牡丹唐草文瓢形瓶
景徳鎮窯元(14世紀)高70.0㎝ 口径9.0㎝ 底径16.0㎝ トプカプ宮殿博物館蔵
『世界美術大全集東洋編7 元』(以下『東洋編7 元』)で佐藤サアラ氏は、高さ70㎝の瓢形瓶で、底裏は露胎でわずかに高台がつく。青花の瓢形瓶は八角のものがいくつか知られるが、面取りのない瓢箪形はこの作品以外には見当たらない。むしろ龍泉窯の青磁に多く見られる器形であるが、これほどの大型のものは青花にしかない。流れるような牡丹唐草が瓶全体に描かれており、丸みを帯びた器形の曲線的な美しさをさらにきわだたせている。この瓶の場合には曲線を活かす文様装飾が考案されているあたり、元青花の画工の装飾感覚の豊かさを感じさせる。
口部には銀のマウントがつけられている。トプカプ宮殿の所蔵品には、しばしばこのようなマウント装飾を施したものがあるという。
牡丹の花が蕾から満開まで、また向きも様々に描かれている。瓢箪の形といい、文様といい、完璧な作品だけれど、口に余計なものがあって残念。
牡丹の花をじっくり見ると、花弁の端に丸いものが並んでいる。現在では見かけないが、元時代にはこんな品種が咲いていたのだろうか。
トプカプ宮殿博物館蔵青花牡丹唐草文瓢形瓶 元(14世紀) 世界美術大全集東洋編7 元 より |
青花鳳凰花卉草虫文八角瓢形瓶
景徳鎮窯 元(14世紀) 高59.8㎝ 口径8.3㎝ 底径17.3㎝ トプカプ宮殿博物館蔵
同書で佐藤サアラ氏は、60㎝近い瓢箪形の大瓶をさらに八角に面取りした、成形に熟練を要する作品である。わずかに高台がつき、底裏は露胎である。さまざまな文様が器面いっぱいに描き詰められているが、この八角の面取りという器形をうまく文様構成に利用して、煩瑣に陥ることを避けている。
まず、菱繋ぎの帯文様とラマ式蓮弁によって胴の上下を区切り、さらに八角に応じて器面分割をすることによって、繁雑になりがちな文様を整然と配している。瓢箪形の下部8面は、5面には鶏頭や竹、瓜、葡萄といった植物のあいだに蛙、蜥蜴、蝶、蟷螂、蟋蟀などの昆虫を、3面には菊に2羽の雉、牡丹に雌雄の孔雀をそれぞれ1面ずつ描いている。上部の8面には瓜、葡萄、石榴といった果物と牡丹、菊、蓮花の花枝を交互に配している。
ここには、元青花に用いられるあらゆる文様が描かれており、まるで絵手本といってもよいほどである。一対の雉や孔雀は大盤の見込みや扁壺などにも主文様として見られるものであり、菱繋ぎやラマ式蓮弁、口縁下の八宝を入れたラマ式蓮弁文などの帯文様も、元青花常用の文様帯である。また、瓜や葡萄、石榴や牡丹菊などは明初の盤の主文様にしばしば見られるものであるという。
後ろを振り返っているのはクジャク?それとも鳳凰?博物館内でも図版でも、見えるのが正面だけなのが残念。
龍文大盤
龍の頭部や肢先の爪がよく写せていない。
盤は他にもあった。
左は見込みの中心から花卉を四方に描き、その間を別の植物文様で埋めているので、上下がない。それに比べて右は見込みに太湖石と牡丹の花や葉が描かれているので、上下がある。
左上は太湖石と密な牡丹唐草で絵に上下がある。
左下は三つの花と下には茎だろうか、やはり上下がありそう。
これらとは異なる文様の盤も所蔵している。
青花麒麟文盤
景徳鎮窯 元(14世紀) 口径46.5㎝ トプカプ宮殿博物館蔵
『東洋編7 元』で佐藤サアラ氏は、躍動感あふれる麒麟の力強さにまず目を引き付けられる作品である。数ある元青花のなかでも発色はひじょうに美しく、麒麟の鱗の一つ一つに至る丁寧な描画、太湖石や牡丹に見られるだみ染めの手法、文様を描き詰めながらも繁雑な印象を与えない全体的構成に、工人の熟練した技量がうかがえる。
底裏は露胎で、墨書でアラビア文字が記されているが、判読は難しい。
器面をうまく利用した装飾法で、麒麟文を描いた見込みを取り巻くように内壁には元青花特有の牡丹唐草、平縁には花唐草と、盤の各部をそれぞれ文様帯として効果的に用いているという。
そう言えば、NHKの「工芸の森 トプカプ宮殿 植物文様に秘められた物語」では、太湖石(中国の水中で浸食されて穴があいた特異な形状となった石灰岩)から変化して葦の葉になったという。
葦の葉になるまでの太湖石の表現だが、正倉院宝物の鳥毛立女屏風に描かれた太湖石とはだいぶ岩の表現が違う。宝物の方がずっと太湖石っぽい。
麒麟にウロコがあったとは。岩を踏むことなく駆けている。
トプカプ宮殿割礼の間外壁にある大型のタイルパネルにも麒麟が描かれているが、角もたてがみもない。
トプカプ宮殿博物館蔵青花麒麟文盤 元(14世紀) 世界美術大全集東洋編7 元 より |
青花八宝文稜花盤 景徳鎮窯元(14世紀)高7.8㎝ 口径45.7㎝ 底径26.4㎝ トプカプ宮殿博物館蔵
『東洋編7 元』で佐藤サアラ氏は、盤の中央に置かれた 6弁のラマ式蓮弁とそれを囲む六つの大きな如意頭枠、そしてそのあいだを空間忌避的に埋め尽くす唐草文がこの盤にイスラーム風な印象を与えている。空白を余すところなく文様を描き詰めるのは元青花の大きな特徴の一つで、彩絵という新しい装飾表現手段を得て可能となったものであり、この盤はそうした元青花の魅力にあふれた作品である。
全体的には伝統的な中国様式というよりイスラームの意匠に借りているところが大きいように感じられるが、八宝文や青海波、唐草文など、枠組みの内側を埋める個々の文様は、すべて中国独自のものであるという。
トプカプ宮殿博物館蔵青花八宝文稜花盤 元(14世紀) 世界美術大全集東洋編7 元 より |
ラマ式蓮弁というものは、壺や梅瓶、瓶などの裾文様なのかと思っていたら、盤の見込み中央に描かれている。その中には、上から時計回りに、巻き貝を下から眺めたようなもの、七宝、巻き貝、筒守、巻き貝、珊瑚?と巡っている。そして中心には水紋のようなものが、細かい格子地に描かれている。
その周囲の蔓草は、まるで後の日本で染付で描かれた蛸唐草のように、花がなく蔓と退化した葉ばかり。
六つの大きな如意頭枠は、一つは青海波文に五弁花が三つ浮かび、もう一つは波が密に打ち寄せているて、それが立体感を感じるほど。
トプカプ宮殿博物館蔵青花八宝文稜花盤 元(14世紀) 世界美術大全集東洋編7 元 より |
六つの大きな如意頭枠は、一つは青海波文に五弁花が三つ浮かび、もう一つは波が密に打ち寄せているて、それが立体感を感じるほど。
トプカプ宮殿博物館蔵青花八宝文稜花盤 元(14世紀) 世界美術大全集東洋編7 元 より |
青花蓮池水禽図稜花盤 景徳鎮窯 元(14世紀) 高10.8㎝ 口径45.0㎝ 底径25.2㎝ トプカプ宮殿博物館蔵
『東洋編7 元』は、文様を白で残して周りを潰してゆく逆青花の方法をとっているため、一般の青花とはまた違った印象を与える作品である。見込みには蓮池に遊ぶ4羽の鷺、内壁には菊唐草に4羽の鳳凰を配し、稜花に作った平縁には蛇形波文を描いている。この盤はほかの大盤に比べて内壁部が深く見込み部分が小さいため、通常の大盤に比べると見込みの主文様がきわだっていないという。
トプカプ宮殿博物館蔵青花蓮池水禽図稜花盤 元(14世紀) 世界美術大全集東洋編7 元 より |
同書は、内壁に凝った文様が描かれ、たんなる従文様としての文様帯にとどまっていない。菊唐草の花弁の一つ一つ、そのあいだに配された鳳凰の羽や唐草風の尾など、細かな部分まで丁寧に表現され、この盤に占めるその装飾的効果は大きい。
この盤の稜花形の口縁は、イスラーム風の意匠の盤にしばしば見られるものである。稜花形のものには、見込みに絵画的図様を描いたものもあるが、同じ図柄の大量生産的なものは少ない。元青花が輸出品として海外に運ばれ始め、大量輸出品として定着する以前の、早い時期のものではないかと想像されるという。
平縁の波に蛇形波文という名称があるとは。
『魅惑のトルコ陶器展図録』には、オスマン帝国で16世紀半ばに製作された皿の平縁に、皿の縁の部分の文様は、波濤が岩に当たって砕けるモティーフで、中国磁器のデザインに由来しているとして、中近東文化センター蔵白釉多彩花文皿が紹介されていた。その上。見込みには中国の太湖石から変化してできた文様である葦の葉も描かれている。
元の青花では水の流れだったが、トルコ陶器では渦巻きになっていた。
『東洋編7 元』は、通常の白地青花と逆の手法をとったうえに、さらに吹き墨技法による効果も加わっているという。
蓮池には大きく咲いた蓮華や蕾、上を向いて開く蓮葉、しなだれる葉などで埋め尽くされている。その中の白く丸いものは何かの葉だろうか。
蓮池に立つサギ、飛んできたサギ、それを振り向いて見ているサギ、そして餌を探して歩くサギ。細かな吹き墨は雨を表しているのかも。
トプカプ宮殿博物館蔵青花蓮池水禽図稜花盤 元(14世紀) 世界美術大全集東洋編7 元 より |
『東洋編7 元』は、景徳鎮窯や龍泉窯ではイスラーム世界向けに大きな器を作り、青花磁器はコバルトで描かれた水禽文や花文、龍文、鳳凰文で美しく飾られた。中国の陶磁の歴史でかつてなかった彩画磁器の時代、それが元時代である。宋代までの陶磁器は青磁や白磁などモノクロームが主流であったのが、元時代には陶磁器の様相が一変する。
14世紀、元時代に誕生した青花磁器が、明・清時代の陶磁生産の主流を占めるようになったのである。その意味では、青花磁器は中国の伝統的な様式から脱皮し、民族を超えた新しい「中国製磁器」で、中国陶磁史の近世の幕開けを象徴するやきものである。その変革を促したのがユーラシア大陸を舞台とした陸路と海路による陶磁器の大交易であったという。
そして元の青磁類
『東洋編7 元』は、トプカプ宮殿博物館には元代から明代前期の青磁が約1300点伝世している。器形は壺、瓶、水注、盤、鉢、碗などでいずれも大作で、無文のもの、線刻装飾のあるもの、ビスケット(型抜きした素焼きの文様)装飾のあるものなどさまざまである。
青花磁器はイスラーム世界だけでなく、元大都でも新生の磁器として受け入れられたのであり、陶磁器において元時代は中国とイスラーム世界の嗜好が近似した時代なのである。さらにいえば、大皿などに象徴されるようにイスラーム世界の人々の好みや、青花や孔雀釉などイスラーム陶器の装飾法を受け入れ、新しい中国陶磁の生産を推し進めた時代でもあった。
しかし、そうした新しい傾向に対し、青磁や白磁などの単色釉の磁器の生産体制を踏襲しようとする動きも、また一方に存在する。それは官窯磁器という形で、中国の宮廷の御用磁器のなかに生き続けるのであるという。
広い見込みに4匹の魚が泳ぐ盤が飾られていた。
青磁鎬文壺
龍泉窯 元(14世紀) 通高30.5㎝ 口径25.9㎝ 底径17.9㎝ トプカプ宮殿博物館蔵
同書は、いわゆる酒会壺とも呼ばれる広口壺で、荷葉形の蓋を伴っているものが多い。青磁の酒会壺は南宋時代からあり、四川省遂寧市窖蔵から素文の酒会壺が出土している。元時代にこのスタイルが流行し、韓国新安沖沈船や日本伝世の青磁のなかに多く見られる。
同博物館にはこの形の青磁壺が10点あり、イランのアルデビル廟にも同形の伝世品がある。元時代の龍泉窯青磁の壺の典型的な形といってもよい。酒会壺は景徳鎮窯の青花磁器でも数多く作られているという。
元時代になると青磁の色が変わるのか、砧青磁の色がこんな風に変わって見えるのか。
トプカプ宮殿博物館蔵青磁鎬文壺 元(14世紀) 世界美術大全集東洋編7 元 より |
青磁刻花双魚文盤
龍泉窯 元(14世紀) 高9.1㎝ 口径40.5㎝ 底径22.7㎝ トプカプ宮殿博物館蔵
同書は、この青磁大盤は平縁で、内面には線描きで双魚文と蓮花唐草文、波濤文が描かれている。平縁には型抜きした梅花形のビスケットを16個、規則的に貼り付けている。内面の見込みには双魚文を刻し、その周りには波濤文を巡らせている。双魚文は南宋時代の龍泉窯にも見られるが、この魚文はそれに比べ躍動感がある。内側面に描かれた蓮花唐草文は、元青花磁器の蓮花文に通じるところがあるという。
トプカプ宮殿博物館蔵青磁刻花双魚文盤 元(14世紀) 世界美術大全集東洋編7 元 より |
青磁鉢
『東洋編7 元』で佐藤サアラ氏は、40㎝を超える大盤という器形自体、イスラーム圏で使われるもので、従来の中国陶磁には見られないものである。こうした盤をはじめとする大型という特徴は、元青花の貿易陶磁的性格を如実に物語っている。
トプカプ宮殿博物館の龍泉窯青磁の盤には元青花磁器の文様に酷似した文様を刻した一群があり、元時代の龍泉窯と景徳鎮窯のあいだで形や文様の共通性が認められる。青花磁器と形や文様が似た青磁は、輸出用としてとくに作られた青磁と考えることができるだろう。その傾向は明前期まで続き、洪武様式の青花磁器を写したと思われる青磁の水注や深鉢などがある。これは龍泉窯の輸出磁器の一つの傾向を示す興味深い事実である。
トプカプ宮殿博物館に現存する龍泉窯青磁の遺品の数は元の青花磁器と同数もしくはそれを超え、14世紀後半、華南の二つの磁器窯がイスラーム世界という同じ輸出先に向けてしのぎを削っていたことを示すものであるという。
14世紀後半といえば、オスマン帝国第二代皇帝がオルハン(在位1324-60)、第三代がムラト一世(在位1360-89)、第四代バヤズィット一世(在位1389-1402)のあたりに相当する。それは1326-65年までオスマン帝国の首都が置かれていたブルサ時代か、その後にムラト一世が都をエディルネに遷した1365年以降なのか。
いずれにしても、オスマン帝国の領土拡張期にあたり、まだコンスタンティノープル陥落前のことである。そのような時代に、大量の磁器類が無事で、しかもメフメト二世(在位1445-81、ただし二度の退位期間も含む)がコンスタンティノープルまで運んでこれたこともすごい、と思っていた。
ところが同書で弓場紀知氏は、トプカプ宮殿は1453年にメフメト二世がコンスタンティノープルを首都とした後に建てられた宮殿で、現在この宮殿博物館にある元青花磁器はかつてエジプトやシリアなどにあったと考えられるもので、オスマン帝国の征服後 こ大量の元青花磁器のなかから大作の優品だけがコンスタンティノープルに運ばれ、トプカプ宮殿に収蔵されたと推測されるという。
なんと、オスマン帝国の領土となったエジプトやシリアから運ばれたものだったとは!
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参考にしたもの
NHKの「工芸の森 トプカプ宮殿 植物文様に秘められた物語」
参考文献
「世界美術大全集東洋編7 元」 責任編集 海老根聰郎・西岡康宏 1999年 小学館
「Architect Sinan His Life, Works and Patrons」 Prof. Dr. Selçuk Mülayim著 2022年 AKŞIT KÜLTÜR TURIZM SANAT AJANS TIC. LTD. ŞTI.