2023/11/21

福島の旅 南相馬市博物館


郡山から三春を過ぎて高瀬川沿いに海岸の方へ向かった。
山に囲まれた風景から段々と平たいところが多くなった頃、帰宅困難区域の家々の道脇に柵があったり、耕作地が放置されていたりした。
その内に立て替えた家々、耕作が再開された土地、そしてもう耕作できないところには太陽光発電パネルが海の波のように並んでいるのだった。

『旅に出たくなる地図 日本』より
福島県の観光地図 『旅に出たくなる地図 日本』より


南相馬市博物館に入ると野馬追いの様子が実物大で再現されていた。
相馬という地名は相馬氏に由来する。相馬氏の祖は平将門で、下総国に野馬を放ち、敵兵に見立てて軍事訓練を行ったのが始まりとされる。
現在でも毎年7月末に甲冑姿の400騎の騎馬武者が腰に太刀、背に旗をつけて疾走する勇壮な行事が行われているが、猛暑で熱中症の人たちが倒れることもあるので、開催日の変更を検討している。
今でも子供の時から馬に乗る人も多いなどと学芸員氏の説明があった。


かつて原町区内に建っていた原町無線塔の模型
説明パネルは、かつて原町区内に建っていた原町無線塔は、大正12年(1921)の関東大震災の際、アメリカに第一報を伝えました。それがきっかけて、励ましのメッセージとともに世界中から救援物資や義金が寄せられ、多くの命を救ったといわれています。 
その無線塔は、昭和57年(1982)に老朽化による解体で姿を消してから40年以上が経過し、震災時の活躍をはじめ、その存在すら忘れられつつあるかもしれません。 今年関東大震災から100年をむかえることにちなみ、かつての無線塔の役割や、震災時の活躍、解体に至るまでのあゆみをパネルや資料でふり返りますという。

原町に来ると見えた光景
原町区下北高平 国道6号 昭和52年(1977)2月 写真撮影: 大明生氏
説明パネルは、かつて、国道6号を北側より原町に入ってくると、このように、遠方に高くそびえ立つ無線塔のすがたが見えました。「原町に来たなぁ」と実感させる光景でしたという。


化石ワールド 南相馬 世界に誇る化石の産地 古生代-中生代-新生代の化石が一堂に
説明パネルは、南相馬市は、古生代-中生代-新生代すべての地質年代の地層が分布し、古生代の三葉虫、中生代の恐竜 (足跡) アンモナイト、新生代のクジラをはじめとする哺乳類など、あらゆる時代を代表する化石が産出します。このように、一つのまちの中ですべての地質年代の化石がとれる地域は全国的にも珍しいことです。
化石は、はるか昔の生き物たちが、偶然にも腐敗・分解をまぬがれて残ったもので、発掘されることにより、私たちが想像できないような太古のようすを教えてくれます。いわば化石は、地球の歴史の一端を物語るタイムカプセルであり、この南相馬は、その数億年にもわたる地球の歴史を、身近に観察することができ、近年は世界の地質・古生物学者からも注目をあびる、すばらしい地域ですという。
南相馬限定で出土するとは。地殻変動でここだけ古い地層が表面に出てきたのかな。

クラドフレビス シダ植物シダ類 ジュラ紀後期 栃窪層
南相馬市原町区信田沢産 個人所蔵
分類上不明のシダ類ですという。

拡大


サブディコトモセラス・チサトイ アンモナイト目 ジュラ紀後期 中ノ沢層
南相馬市原町区石神産 荒好標本

同上

ネオブルメシア・イワキエンシス 軟体動物二枚貝類 ジュラ紀後期 中ノ沢層
南相馬市原町区石神産 荒好標本
説明パネルは、ウミタケガイモドキの仲間の化石です。ふくらみが強い長楕円形をしていて、イボ状の放射肪が特徴ですという。
学名に「イワキ」がついている。

恐竜の足跡
説明パネルの写真を写し忘れていた。

こんなに拡大して撮ったのに・・・



浦尻貝塚の地層パネル
ぐっと時代は下がって縄文時代 
貝層剥ぎ取り断面のパネル


羽山装飾横穴(レプリカ) 桜井古墳の時代 説明パネルより

説明パネルは、東日本の太平洋側には多くの横穴古墳が残されています。
しかし、そのなかに装飾(壁画)が描かれたものはわずかだけです。羽山横穴の壁画は 奥壁に人物4人・馬3匹・蛇行文1条、長方形のシルエット一つ・鹿2匹(うち白鹿1匹)・赤白の線で連結した渦巻文二つ・水平線などが描かれています。
農耕社会が成立し、富をした有力者は、やがて、地域を支配する豪族に成長します。豪族は、権力の大きさを古墳という大きな墓を築くことによって、誇示しましたという。

また、玄室の軒廻り線から上の天井には赤白の珠文が満天の星のようにいくつも描かれていますという。

中段
中央に人物や動物、白いシカ?、右端に渦巻き
左壁には白い点が二段に渡って整然と描かれている。

渦巻きのパネル


横穴墓は他にも分布している。
西宮下横穴墓群


桜井古墳群 
原町区高見町 パネル
説明パネルは、桜井古墳群は、新田川の南岸に発達した河岸段丘の縁辺に立地し、1号墳の国史跡・桜井古墳 (前方後方墳)を主とする桜井古墳群としてとらえ、古墳群の中央に形成された自然谷と周囲の 古墳の分布状況から、西側の古墳群を高見町支群、東側を上渋佐支群と呼んでいます。
高見町支群では 25基の古墳が確認され、小型の前方後円墳1基、円墳21基、 墳丘をもたずに 箱式石棺や刳貫形石棺を直接埋葬したもの3基で構成される後期群集墳であることがわかりま した。
15号墳は前方後円墳で、大刀・鉄鏃などの副葬品があり、 古墳群における最有力首長墓と考 えられます。
これらの古墳群が造営されたのは土器の年代から6世紀前半頃で、 桜井古墳群高見町支群の周 囲で古墳時代前期から集落や墳墓の造営が行われていることから、古墳時代を通して勢力を持つ 新田川流域における伝統的な集団であったと考えられますという。
高見町支群・上渋佐支群に20近くの古墳がある。その一号墳が前方後方墳

福島県と宮城県南部の古墳の分布と大きさ パネル



一号墳 前方後方墳


時は下って仏教寺院が建立された頃の出土瓦



長瀞遺跡の製鉄遺跡群
説明パネルは、南相馬市原町区・鹿島区に広がる金沢製鉄遺跡群は、原町火力発電所建設に伴う発掘調査により発見されました。
その結果、製鉄炉123基、木炭窯149基、その他住居跡などが多数発見され、古代の日本で最も大規模な製鉄遺跡群であることや、7世紀後半から10世紀初頭まで鉄を生産していたことがわかりました。
製鉄炉には竪形と箱形があり、その中でももっとも保存状態のよい竪形炉を切取り保存し、実物を展示しました。この製鉄炉の年代は8世紀後半と推定されますという。

相馬地方の古代の製鉄炉の説明パネル
「ふいご」は炉の背後の箱形のもの。木製の板を嵌めて踏んだのだろう。


製鉄のジオラマ
柱を立てて、それを支えに二人でふいごの板を踏んで風を送った。

ふいごから送られてくる風で温度が高くなったところが白くなっている。


竪形炉の (実物)展示
左上まで階段で上ることができる。

中程より見下ろす


その先を方向を変えて、



製鉄炉の炉壁、噴出滓など



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参考にしたもの
南相馬市博物館の説明パネル

参考文献
「旅に出たくなる地図 日本」 2010年 株式会社帝国書院