2024/01/05

明兆の白衣観音図に龍


昨年白衣観音図をまとめていた頃、1978年発行の『水墨美術大系第5巻』に明兆の白衣観音図がとても小さなモノクロームの図版を見つけた。それで作品自体も小さなもので、あまり重視されていない作品なのかと思っていた。
ところが、東福寺展が2023年春に東京国立博物館で、秋に京都国立博物館が開催され、この作品が展示されることがわかった。そして、ある美術展を紹介する番組で、驚くほど大きなものであることを知り、秋の東福寺展に足を運んできた。
実際にそれは、博物館の展示スペースぎりぎりの高さほどもあった。白衣観音図は下から見上げたが、下辺右端の龍やや視線を下げてしっかりと見ることができた。年を取ると文字に限らず、大きい方が有り難い。

これが明兆が描いた龍である。明兆がこれ意外にも龍を描いているのかわからないが、迫力があるというよりは、波涛と岩との間に顔を出して、座禅を組む白衣観音の妨げになるものを追い払うべく睨んでいる程度。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より


白衣観音図 吉山明兆筆 東福寺蔵 室町時代、15世紀
紙本着色 縦336.2㎝ 横281.2㎝ 
同展図録は、明兆は数多くの大作・連作を描いたことで知られるが、そのなかでも本作の巨大さは圧倒的である。ダイナミックな筆致による岩窟描写のなか、荒れ狂う波濤上の岩座に正面向きの白衣観音を描き、画面下部には龍と善財童子とを配して、安定した三角形構図を形作っている。筆勢あふれる水墨描写と計算された画面構成とが絶妙に均衡を保っている作といえよう。
本作は東福寺法堂の仏後壁に貼られていた可能性が指摘されている。法堂の再建上棟は応永35年(1428)だが、本作にみる荒々しい水墨描写からみても明兆最晚年作とみられ、この時期に制作されたものとして様式的に矛盾はない。ただし面貌表現には固さが残り、「寒山・拾得図」と紙継ぎの寸法が一致することとも合わせ、この時期における明兆工房の様態を改めて検証する必要があるだろう。ただいずれにせよ、明兆の最晩年様式がここに如実に示されていることは間違いなく、その規格外のスケールからみても、明兆の代表作の一つとして評価できるという。
その番組では、白衣観音の大きな頭光が垂れ下がる岩窟の奥に描かれているので、岩座は岩窟よりも向こうにあるとも言っていた。ということは、白衣観音は奥の岩の上に坐っていて、善財童子や龍は岩の手前にいるので、両者の間にはかなり距離があることになる。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図 東福寺展図録より

静かに座禅を組む白衣観音
中国では南宋時代以降、高麗仏画にも、日本でも、白衣観音図は様々な描き方をされているが、このように正面向きの作品は少ない。それは、掛け軸などのような個人で鑑賞するものと違い、法堂の仏後壁という描かれた場所なので、寛いだ白衣観音を描く訳にもいかなかったのだろう。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より


そして善財童子
明恵の夢と高山寺展図録』は、『華厳経』の最終章である入法界品は、善財童子が文殊菩薩の教えを受けた後、53人の善知識(よき友)のもとを訪れ、教えを請う物語であるという。
着物の後ろ側がもこもこしているので、どちらかというと迦陵頻伽のように見えた。
東福寺蔵吉山明兆筆白衣観音図部分 東福寺展図録より

善財童子と言えば、2019年の「明恵の夢と高山寺展」で、文殊菩薩の教えを受けた後、53人の善知識(よき友)のもとを訪れ、教えを請う物語である(同展図録より)。この主題を描いた華厳海会善知識曼荼羅(鎌倉時代 13世紀)は不鮮明なところが多く、白衣観音に教えを請う図があるのかどうか分からなかったので、検索すると、奈良国立博物館の収蔵品データベースに絹本墨画の白衣観音(鎌倉時代13-14世紀)を見つけた。

同サイトは、さとりの道を求める旅に出た善財童子が補陀落山で観音菩薩にまみえるという、『華厳経』入法界品に説かれる一場面を水墨で描く。竹林が茂る深山幽谷の中、白衣をまとった観音菩薩が坐禅瞑想し、小岩上で合掌礼拝する善財童子と相対する。賛者の約翁徳倹(1245-1320)は、中国に渡って阿育王寺や天童寺で学び、帰国後に南禅寺などの住持を務めた禅僧。
本図への着賛は、帰国後に建長寺内の長勝寺の開山となった永仁4年(1296)以降の晩年と考えられる。日本で描かれた現存最古の白衣観音図の一つとして貴重という。
昨年まとめた白衣観音図 日本では一番古いもので、一山一寧(1299来朝-1317没)賛の白衣観音図だったので、奈良博本の方が古そうだ。 


せっかくなので、明兆の寒山拾得図も。

寒山拾得図 吉山明兆筆 二幅 室町時代、15世紀
紙本着色 各縦248.6㎝ 横112.0㎝(描表装を含む)
紙継ぎの寸法が白衣観音図と一致することから、同時期の作品と考えられている作品。
同展図録は、寒山と拾得は中国唐時代の風狂の僧で、水墨画の画題として多く取り上げられた。本作における二人の奇怪な面貌は、中国の道釈画家・顔輝の作例に通じる表現である。 
文化12年(1815)の「虫拂方丈之図」 や、天保4年(1833) 刊『新古書画雲烟供養展観録』などでは、本作は達磨図の脇幅として掲出されている。ただし、達磨図やそれと同時期作とみられる蝦蟇鉄拐図および「円爾像」とは、描表装の形式や画風が微妙に異なり、それらに合わせるために後に追加制作されたものとみられる。 
近年の修理により、本作は各幅とも最大値で縦34.2、横58.9㎝ほどの料紙を継いで構成されていること、またそれら一紙あたりの寸法が「白衣観音図」と近似することが報告されている。渇筆混じりの野太く粗削りな岩描など、画風の面でも共通点を見出すことができ、両者が同時期に制作された可能性は高い。白衣観音図は応永35年(1428)の法堂上棟に合わせて描かれたとも指摘されており、本作もこの時期に制作されたものとみられる。明兆最晩年における工房の様態は明らかではないが、本作の描写の一部には弟子の関与も考慮されるという。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図 東福寺展図録より

ということで、昨年顔輝の寒山拾得図に似ていると記事に書いたが、誰もが感じることだった。
きっと明兆は、顔輝の寒山拾得図を見たことがあって、その顔が気に入っていたのだろう。
東福寺蔵吉山明兆筆寒山拾得図部分 東福寺展図録より


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参考文献
「東福寺展図録」 東福寺・東京国立博物館・京都国立博物館・読売新聞社編 2023年 読売新聞社・NHK・NHKプロモーション
「明恵の夢と高山寺展図録」 2019年 中之島香雪美術館