2008/03/13

法隆寺中門の仁王像は迫力があるが


法隆寺南大門は組物が簡素だが、法隆寺のしおりによると、永享10年(1438)、室町時代の再建という。 塀は版築になっているというか、築地塀である。室町か、もっと下るのかわからないが、均等な厚さにつき固めてある。いつの頃からそうなったんだろう。南大門を入ると向こうに中門と五重塔が見えるが、この間も結構距離がある。左側に正月の松飾りが見える。正月明けに見学したのだった。こちらも版築の層が整然と積み重なっている。ひびもはいっているな~。中国、といっても新疆ウイグル自治区で見た版築は10㎝くらいの厚さだったので、日本の版築が薄い層の積み重ねに見えてしまうのだが、雨の降らない地域のものと雨の多い日本とでは作り方も違って当たり前ですなあ。彼の地では、日干しレンガよりも長持ちするということでした。 そして中門。昔は中門を通って西院伽藍に入ったような気がするが、いつの頃からか、このように通行禁止になってしまった。
『週刊古寺を巡る1法隆寺』に、中門(国宝)は柱間(はしらま)が4間という特異の偶数間。内部の金堂・五重塔との空間的バランスを配慮した結果だろうか。他に類例のない真ん中の柱の意味については論議が盛んとあるように、若い頃は梅原猛氏の『隠された十字架』の説に感銘を受けたが、すぐに嫌気がさした。
数年前、講座で田淵俊樹氏が、塔と金堂を同格と見なして東西に併置し、それぞれに門の入口をつけたと考えれば不思議でもなんでもないと言っておられたのを聞いて納得できた。今では上記のバランス感覚ということで良いのではないかと思う。
お釈迦さんの遺骨(仏舎利)を納めたストゥーパが仏塔の起源で、五重塔は仏塔の1つなので、寺院の伽藍配置では五重塔が最も大事なものだった。だから山田寺のように四天王寺式に中門を入ったらまず五重塔があり、五重塔の背後に金堂があったり、飛鳥寺のように五重塔を3つの金堂が囲んでいたりしていた。それが法隆寺では、五重塔と釈迦三尊像が安置してある金堂が重要な建物となった。その後は当麻寺のように、金堂が最も重要な建物となって、本来の仏塔の意味も信仰もなくなった三重塔が2基もあって、ただの飾り物となってしまった。さて、今回初めて法隆寺の仁王像をじっくりと見て、阿像が赤いことに気がついた。そして体に比べて頭部が小さいなあ。こんなに迫力があるとは!
同書は、両脇の金剛力士像(重文)は、711年(和銅4)に制作された塑像。後世の補修により、体躯は一部木造に変えられたが、筋肉の表現などに天平の古調を色濃くとどめているという。 吽像は青かった。そういわれてみると、こちらの方は胸や腹部の表現が平板やなあ。  頭部は後補なのかなあ?青い方は玉眼のような気もする。もっと近寄っていろんな角度から見ることができないのが残念。

※参考文献
「美術ガイド奈良」(1979年 美術出版社)
「週刊古寺を巡る1法隆寺」(2007年 小学館)