2008/02/20

飛鳥寺の一塔三金堂式伽藍配置は高句麗風


飛鳥寺も久しぶりに行った。国道169号線を近鉄岡寺駅前の交差点から県道155号線に入り、東へ向かうと亀石・川原寺跡・橘寺などの看板が左右に見過ごし、高市橋の先で石舞台古墳へと南に傾く155号線とも分かれ、狭くなった道を直進する。ところが先はT字路となっていて、飛鳥寺の標識も見落としたが、迷い込んで困ったと思いながら狭い道を北に行くと、飛鳥寺の有料駐車場の呼び込みにふらふらと入ってしまった。車を降りて飛鳥寺に向かうが、塀の前には飛鳥寺の広い駐車場が別にあった。飛鳥寺も東側から入るのだが、それも東大門などというような立派なものではなく、山門とも言えないような塀の開口部から境内に入り込むという感覚である。そんな入口なので、今回も写真を撮るのを忘れていた。入ってまず目に入ってくるのは刈り込まれた木々や鐘楼です。 『日本史リブレット71飛鳥の宮と寺』で黒崎直氏によると、飛鳥時代は、飛鳥寺(法興寺)の創建によってその幕が切っておろされる。588(崇峻元)年のことだ。その前年、「排仏派」物部守屋との権力争いに勝利した「崇仏派」の領袖蘇我馬子が、戦いに臨んで先勝祈願した「造寺」を、さっそくに実行したのである。蘇我氏の本拠地に造営されたこの飛鳥寺は、蘇我氏の氏寺という意味だけでなく、わが国最初の本格的な伽藍寺院として、文化的にも歴史的にも大きな画期をつくりだした。
百済から派遣された僧侶や寺工(てらのたくみ)・瓦博士(かわらのはかせ)などの技術者たちの援助を受け、造営が開始された。  ・・略・・  596(推古4)年12月には「寺の造作がほぼ終了し、寺司(てらのつかさ)と僧2人が寺に住み始めた」と『書紀』は伝える。造営が開始されて8年目のことだ
という。
しかし、当時の建物は建久7年(1196)に落雷のため焼失したらしい(同書より)。 『国宝と歴史の旅1飛鳥のほとけ天平のほとけ』(以下『飛鳥のほとけ』)によると、飛鳥寺は鎌倉時代初期の頃から急速に衰微した。日本最古の丈六仏が露坐のまま痛々しい姿をさらした時代もあったが、文政8年(1825)、この安居院(あんごいん)本堂が中金堂の跡地に建てられたという。
昔拝観した時は、左側から靴を脱いで本堂に入ったような記憶があるが、今回は西側から入るようになっていた。 黒崎氏は、飛鳥寺の跡は、今、明日香村飛鳥の「飛鳥寺」本堂周辺に広がる。  ・・略・・  発掘調査が行われ、  ・・略・・  塔を中心にして、北と東と西の三方に金堂を配置するという「一塔三金堂式」の伽藍配置が確認されたことだ。しかし、わが国に多くの影響をもたらした「百済」には存在せず、ようやく高句麗の古都「平壌」に所在する「清岩利廃寺」がそれで、八角形基壇の塔跡を中心に北・東・西の三方に「金堂」が配置されていたという。 百済の工人たちが日本に来て高句麗式の伽藍配置で寺を建てたというのは不思議やなあ。飛鳥寺の塔は四角形で五重というのは百済系?
飛鳥資料館の飛鳥寺に発掘調査についての画像がいろいろあります。
そういえば五重塔の心礎からガラス類が出土していたが、他にもいろんなものが出土していた。『飛鳥のほとけ』によると、蘇我氏が権力を握る用明天皇以前、すなわち欽明から敏達の時代には天皇家の中心はもっと東北の磐余(いわれ)にあった。それに対して飛鳥川流域に拠点をもつ蘇我氏が、あえてこの地に寺を建て  ・・略・・   
この場所については『日本書紀』にも、「飛鳥衣縫造(きぬぬいのみやつこ)が祖樹葉(おやこのは)の家を壊ち(こぼち)て、始めて法興寺を作る。此の地(ところ)を飛鳥の真神原(まかみがはら)と名づく」 と書いてあります。渡来系の氏族の根拠地だったのですね。おそらく古墳があった場所で、そこを整地した際に出土したものを塔の心礎に納めたのです
ということだ。 魔除けや護符というような意味で心礎に納めたのではなかったみたいだ。
『金の輝き、ガラスの煌めき展図録』によると、硬玉系の勾玉や管玉がみられ、同時期の古墳から見ればやや伝統的な色彩が残る。歩揺のほかに藤ノ木古墳と同じ剣菱形飾り金具が出土しているということで、古い時代の古墳から出土したものであれば、飛鳥寺創建と同時期の古墳の副葬品と比べて流行遅れのものがあっても不思議ではないということでした。

※参考文献
「日本史リブレット71飛鳥の宮と寺」(黒崎直 2007年 山川出版社)
「国宝と歴史の旅1飛鳥のほとけ天平のほとけ」(1999年 朝日百科日本の国宝別冊 朝日新聞社)
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」(2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「飛鳥の寺院-古代寺院の興隆-飛鳥の考古学図録⑤」(2007年 財団法人明日香村観光開発公社)

※参考ウェブサイト
飛鳥資料館の飛鳥寺