2008/02/15

当麻寺には創建以来の東塔と西塔


当麻寺は東大門から入って本堂や金堂がある西へ西へと進んでいくが、門を入るとすぐに、南側に東塔が見えてくる。
『日本の美術77塔』で石田茂作氏は、木造三重塔は木造五重塔を三層で止めたままで構造的にはまったく同じである。  ・・略・・  法起寺三重塔につづいて古いのは、この塔である。奈良時代の製作といわれ、  ・・略・・  三手先斗栱により、軒は飛檐垂木(ひえんだるき)を添えた二軒(ふたのき)の制をとる。この塔で顕著な特徴は二層三層ともに二間にしていることと、相輪を九輪にせず八輪にしていることであるという。
『美術ガイド奈良』で町田甲一氏は、講堂その他の堂舎を整えて、東西両塔(天平、3間三重塔、東塔23.21m、西塔25.15m)に及んだらしい。東塔の方は平面逓減率が大きく、第二、第三重を方二間とした安定感のある塔姿をみせ、天平時代の造立を思わせるという。ということは、ちらっと見えている三層目の1つの面に組物(斗栱)が3つあるので、その間が2間ということやね。
東大門へと戻る途中、中之坊の白い塀の向こうから東塔を見ようと歩いていったら境内から出てしまい、残念ながら近づくことができなかった。金堂の南側にまわった時、燈籠だけを見るんやなしに、南に続く通路を進んだら東塔への道がわかったんやね。
西塔の方は本堂の西南に道がすぐにみつかった。
町田氏は、西塔は、組物も肘木などのびやかさを失っていて、年代も天平末期か平安前期頃と考えられるという。のびやかさというのはちょっとわからないが、組物がにぎやかに並んでいるように見える。確かに相輪は八輪でした。 石段を登り詰めて三重塔を見上げるとこんな感じ。 石田氏は、相輪を八輪にすること、軒組を三手先を用い、二重繁垂木の制によっていることは東塔と同じだが、一重二重三重とも方三間に造り、下層に間斗束(けんとづか)を置き脇間を白壁にしていることにおいて東塔とことなる。東塔よりややおくれて平安初期の製作といわれるという。そういわれると、東塔よりも組物が多く、煩雑な感がある。けんとづかは文字通り、斗栱の間にある短い柱のようなものです。尾垂木がたくさんあるように見えるのも、三間にして組物が多いからかも。奥の院まで行かなかったが、奥の院あたりまで行くと両塔が並んで見えるらしい。町田氏は、しかもそのプランが中門の外に配置される、東大寺などと同じ伽藍形式をとる点、天平後期に塔の整備されたことが想像されるという。
太原の永祚寺にある双塔(創建は明代)みたいなもんやね。でも、日本では塔が2基残っていることが少ないからか、双塔という言葉は聞かない。

関連項目
當麻寺展3 當麻曼荼羅の九品来迎図
當麻寺展2 當麻曼荼羅の西方浄土図細部
當麻寺展1 綴織當麻曼荼羅の主尊の顔
当麻寺で中将姫往生練供養会式

※参考文献
「當麻寺」 当麻寺発行
「美術ガイド 奈良」 町田甲一 1979年 美術出版社
「日本の美術77 塔」 石田茂作 1972年 至文堂

※参考ウェブサイト
古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説などの垂木のお話斗栱と蟇股のお話