2025/10/07

古代の車輪


チョルム博物館に展示されていた古代ヒッタイト時代(前1650年頃)の貼付文装飾付き壺には牛車の図が断片的に残っている。牛車の車輪はスポークではなく、隙間のある板を5枚並べて、中央の板に四角い軸が出ている。これでは車輪は度々壊れただろう。


いつ頃車輪はスポークになったのか。以前イシク・クル湖北岸の岩絵3 車輪と騎馬という記事にしたので、それを元に辿っていくと、

馬車模型 前3千年紀前半 青銅製 イラク、テル・アグラブ出土 バグダード、イラク博物館蔵
四頭立ての二輪で、車輪はスポークではない。おそらく板でつくられたものだろうがなぜギザギザなのだろう。滑り止め?


ウルのスタンダードより戦車図 ウル第1王朝時代(前2500年頃) 
イラク、ウル王墓出土 大英博蔵
四頭立ての四輪で、後方に乗っている。車輪は2枚の板を継いで作っている。
ウルのスタンダードより戦車図 世界美術大全集東洋編16 西アジアより 


青銅製の車輪の箍 前3-2千年紀 トルクメニスタン、マルグシュ遺跡第3900号墓出土 
当時他の地域では見られなかったという。
 
車輪と青銅製車輪の箍(復元展示) トルクメニスタン、マリ博物館蔵
やはり木の板を継いで車輪にして、その外側を青銅の箍で補強している。車軸受も青銅製だったのだろう。


戦車について『古代オリエント事典』は、前2000年頃に輻が発明され軽量で大径の車輪ができ、またおそらく車体が幅広となったと考えられるという。前2千年紀前半に馬牽引(衡は部品を追加して牛に適した形から馬向きに改良され、金属製衡を使用、一部ラバ・ケッティも使用)が始まり、輻式二輪で戦闘狩猟用として特化した馬車が古代戦車として完成した形である。
戦車以前から車輌には社会的地位を示す機能があった。戦車の発明・伝播・使用法については不明な点が多く、再検討することが必要という。
輻は「や」とふりがながふってあるが、「ふく」とも読み、スポークのこと。


墓標 前16世紀 ギリシア、ミケーネの円形墓域A出土 アテネ国立考古学博物館蔵
二輪の戦車に乗る人物が敵を長槍で襲っている。戦車の車輪には4本のスポークがあるが、人が斜めになっていてとても不安定に見える。


青銅製箍のある車輪(復元展示) 前2千年紀 チョガ・ザンビル出土 テヘラン、イラン国立考古博物館蔵  
箍だけでなく、軸受の表面に青銅製の補強板を付けた12本のスポークのある車輪だった。
この大きさから、戦車ではなく、かなりたくさんの荷物や人を遠くへ運ぶための荷車、つまり遊牧民に欠かせない乗り物の車輪だったのでは。


コブ牛の足が車輪になったリュトン 前1千年紀前半 土器 カスピ海南部のギーラーン地方で制作 イラン考古学博物館蔵
車輪のスポークは4本。


では、スポークのある車輪はいつ頃できたのだろう。
『古代オリエント事典』は、車輪をもつ荷車がメソポタミアから急速に各地に伝播していったことが、前3千年紀初期の東ヨーロッパのテラコッタ製模型や荷車状容器などから明らかである。
エジプトでは物資を運搬する荷車の本格的利用は、新王国時代以降のことでありヒクソスによってもたらされたとされる。第18王朝の初期に導入された2頭立ての馬が牽引する2輪のチャリオットとよばれる軽量の馬車(戦車)は、瞬く間に普及し、エジプトの軍事遠征でも盛んに利用された。チャリオットの車輪は、軽量化を図るために4本または6本のスポークをもつ構造となり、2頭の馬をつなぐための長い棒が車軸に取り付けられたという。

エジプトの戦車 前13世紀 ラメセウム(ラメセス二世葬祭殿)の浮彫
6本のスポークの車輪二つの戦車にはラメセス二世の姿しか見えない。
エジプト、ラメセウム浮彫カデシュの戦闘図 図説古代エジプト2 王家の谷と神々の遺産編より

ヒッタイト帝国の戦車はどんなだったのだろうかと後日見学したアンカラのアナトリア文明博物館の写真を探してみたが、なんと新ヒッタイト帝国滅亡後のものだった。

オルトスタット アスランテペ出土 後期ヒッタイト時代(前1200-700年) 石灰岩 アンカラ、アナトリア文明博物館蔵
説明パネルは、酒を捧げ、犠牲を捧げる場面。上部に神の象徴を持つ神が戦車に乗り、手にはブーメラン、腰には剣を持っている。同じ神が中央で稲妻の束を持っている。右側では、王が神に酒を捧げている。上部の碑文には「偉大にして強大なるスルメリ王」と記されているという。


行列道路に連続するオルトスタット 後期ヒッタイト(前900-700) 石灰岩 カルケミシュ出土 アンカラ、アナトリア文明博物館蔵
同じ戦車図が4枚連続しているが、馭者と射手の二人乗りの籠は円文の大きさと数がそれぞれ異なり、馬の下の敵兵は仰向けになったりうつ伏せになったりと、描写に変化が見られる。

一つを拡大すると、車輪には同心円状の線が細く表されている。


狩猟用馬車図 後期ヒッタイト(前900-700) 石灰岩 カルケミシュ出土 アンカラ、アナトリア文明博物館蔵
説明パネルは、2名の人物が乗り、一人は馬車を操縦し、もう一人は矢を放っている。どちらの人物像も、頭蓋骨の形をした頭飾りをかぶっている。矢を放つ人物の腰についた短剣が目を引く。馬の脚の間には、頭にエグレット(馬の頭飾り)をつけた動物が描かれているという。
6本のスポークが太く、描写も古拙なので古いものかと思ったが、やはり後期ヒッタイト時代のものだった。


後期ヒッタイトについて『アナトリア文明博物館図録』は、ヒッタイト帝国は前1200年頃、いわゆる海の民の侵入によって滅亡し、生き残った人々はタウロス山脈の南や南東部に逃げた。彼らが新ヒッタイトと呼ばれる。このでき事の後、彼らは中央集権的な国家を建設する事はもはやできなかった。アッシリアからたびたび攻撃され前700年、ついに完全に歴史から消え去ったがヒッタイトの伝統は最後まで守られていたという。
この時代、アッシリアから攻撃されながらもアッシリアの影響を受けた浮彫がつくられたのだった。

国王のライオン狩り アッシュールナツィルパル2世期(前875-860年頃) ニムルド北西宮殿西翼出土 縦98.0横139.5厚23.0㎝ 大英博物館蔵
同展図録は、アッシリア美術においては、勝者の戦車を引く馬の下に、倒れた敵ないしは犠牲者を描くのは常套手段である。この画面に描かれたライオンは身体に3本の矢を受けている。この画面は完結した構図ではなく、画面の右手には、別のライオンが描かれていたと推測されるという。
大英博物館蔵 ニムルド北西宮殿西翼出土浮彫 国王のライオン狩り 大英博物館 アッシリア大文明展-芸術と帝国-図録より 


後期ヒッタイトの浮彫はアッシリアのものには遠く及ばなかったが、アッシリアにしても、もっと古い時代の浮彫がないのでどんな車輪を使っていたか分からない。




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参考文献
「古代オリエント事典」 日本オリエント学会編集 2004年 岩波書店
「大英博物館 アッシリア大文明展-芸術と帝国-図録」 1996年 朝日新聞社