2024/10/04

イスタンブールの七つの丘


ローマにいる時に七つの丘を意識して眺めたことはない。イスタンブールでは海を隔てて
旧市街を眺めることができるが、ぽこぽこと「丘」があるようには感じなかった。ただ旧市街は小さな半島のように突き出ていて、トラムT1線から道路の交差点を眺めると、下り坂となっていてマルマラ海が見えることがあるので、坂の上にいる程度には感じていた。

『トルコ・イスラム建築』は、イスタンブル市壁内には七つの丘がある。テオドシウスの市壁を建設した後に、ローマ市内にある七つの丘に対抗して、「コンスタンティノープルの七つの丘」として数え上げられた丘であるという。
ということは、コンスタンティヌス帝がこの地に、いや半島の端に都を置いた頃は、もっと小さな街だったので、七つの丘は意識していなかったのだろう。

第1の丘から第6の丘までの六つの丘は、金角湾にほぼ平行に沿って、トプカプ宮殿が建っている丘からエディルネ門まで細長い山脈状に連なっている。
この丘の連なりの北側すなわち金角湾側は、大きく五つの谷が食い込んでいるので、六つの丘の広がりが舌状に出ている。第3の丘と第4の丘の間が最も低い鞍部になっていて、金角湾側の波止場ウンカパヌとマルマラ海側の波止場イェニカプを結ぶ通りの峠になっている。そこにヴァレンスの水道橋が架けられている。
南側には、市壁の西側からバイラムパシャとアクサライを経てイェニカプに達する幅広い谷間が広がり、昔は川が流れていた。この谷の南西側には台地が広がり、そこが第7の丘であるという。

同書にはこのような図(白黒に着色)があったが、①・②・⑮以外はオスマン帝国時代の史跡である。

七つの丘
トプカプ宮殿 ②アヤソフィア ③イブラヒムパシャ邸 ④スルタンアフメットジャーミイ ⑤カドゥルガ、ソコルルメフメトパシャジャーミイ ⑥カパルチャルシュ(グランドバザール) ⑦ベヤズィットジャーミイ ⑧エスキサラユ(古宮殿) ⑨スレイマニエキュリエ(モスクと複合施設) ⑩シェフザーデジャーミイ ⑪ヴァレンス水道橋 ⑫ファーティヒキュッリエ(アギイ・アポストリ聖堂跡) ⑬ヤウズスルタンセリムジャーミイ ⑭エディルネカプ、ミフリマースルタンジャーミイ ⑮テオドシウス市壁 ⑯カラアフメットパシャジャーミイ ⑰ハセキヒュレムスルタンキュッリエ ⑱リュステムパシャジャーミイ ⑲ムスルチャルシュ(エジプシャンバザール、スパイスバザール) ⑳アザブカプ、ソコルルメフメトパシャジャーミイ ㉑ガラタ塔 

⑦ベヤジットジャーミイ・⑩シェフザーデジャーミイ・⑫ファーティフキュリエがそれぞれの丘の上に建てられている。スレイマン大帝の早世した息子メフメトを忍んで建てたシェフザーデジャーミイは、その立地条件の良さから、実はスレイマン大帝のためのモスク建設用地だったのではないかと推測されているくらいだ。

この図を見ると、昔は川が流れていた谷を隔てて第7の丘の突端に⑰ハセキヒュレムスルタンジャーミイと複合施設が建てられたようだが、今日ではその川もなく、平坦で、トラムT1線からはさほど離れていない。なんといってもハセキという電停があるくらいの近さである。
「オスマン帝国外伝」というドラマでは、ヒュッレムがスレイマン大帝にモスクを建てたいと申し出て、ミマールスィナンに要請する場面があった。建設現場の場面はなかったが、イスタンブールにどんどんと人が移住してきて、その人々が礼拝するモスクが必要になった時代だったのだ。
七つの丘と主要建造物 トルコ・イスラム建築より


第1の丘を新市街のガラタポートから眺めると、左より①ディワンの角塔が目印のトプカプ宮殿、②4本のミナレットあるアヤソフィア、③6本のミナレットのあるスルタンアフメットジャーミイと、少しずつ高さが減少している。

ガラタポートから眺めると、橋や港の建物があって良くは撮せなかったが、第3の丘の斜面にある⑨スレイマニエジャーミイが墓廟まではっきりと見えていたが、⑩シェフザーデジャーミイは他の建物に隠れて、こんなにはっきりとは見えない。


では、ビザンティン帝国期の建造物はどこにあったのだろう。
『地中海紀行 ビザンティンでいこう!』(以下『ビザンティンでいこう!』)に概略図があるので、七つの丘を入れてみた。以前記事にしたものは、クリックすると出てきます。

七つの丘
アギアイレーネ聖堂 ②アギアソフィア聖堂 ③グレートパレス ④ヒッポドローム(現アトメイダヌ広場) ⑤ブーコレオン宮殿 ⑥アギオスセルギオスケバッコス聖堂(現キュチュクアヤソフィアジャーミイ) ⑦イエレバタン地下貯水池 ⑧テオドシウス二世の地下貯水池 ⑨コンスタンティヌス広場 ⑩テオドシウス広場 ⑪ミレレオン修道院(現ボドルムジャーミイ Bodrum Camii) ⑫ボヴィス広場 ⑬アルカディウス広場 ⑭コンスタンティヌ・リプス修道院 ⑮テオトコスキリオティッサ教会(現カレンデルハネジャーミイ) ⑯パントクラトール修道院(現モーラゼイレクジャーミィ) ⑰アギイ・アポストリ聖堂(現ファティフジャーミイ) ⑱テオトコス・パンマカリストス修道院(現フェティエジャーミイ) ⑲コーラ修道院(現カーリエジャーミイ) ⑳テクフル宮殿 ㉑ブラケルナエ宮殿 ㉒黄金門(イエディクレ Yedekule)
コンスタンティノープル概略図 地中海紀行 ビザンティンでいこう! より


第1の丘

『ビザンティンでいこう!』は、コンスタンティヌス大帝がやったもうひとつの改革が、遷都である。様々な思惑があって、歴史のある古都 ローマでは不便と考えた皇帝は、ヨーロッパとアジアの境に位置し、三辺のうち二辺が海に臨むビザンティオンの地に、新しいローマ帝国の都を定めるのである。ボスフォラス海峡を遡れば、船で黒海にまで出ることだって可能だ。これが334年のこと。皇帝は大急ぎで首都に必要な建物を造らせ、6年後の330年には、街を聖母に捧げる「献都式」を盛大に執り行う。ローマ人の考え方では、街を守護するのは運命の女神テュケであった。このテュケの役割を、聖母マリアに担わせてしまったことになるという。
コンスタンティヌス帝の後もこの辺りに様々な建物が造られた。それについては次回。


第2の丘

⑨コンスタンティヌス広場
広場とは思わなかったが、少し広くなっていた。コンスタンティヌスの柱という巨大な台座にたつ円柱が鉄の輪っかで縛られている。
『望遠郷』は、ディワン大通りの北はずれにチェンベルリタシ(輪のある柱)がある。この柱は1779年に火災にあい、焦げた柱とも呼ばれる。
コンスタンティヌス1世はコンスタンティノープル開都の330年5月11日にこの柱の除幕式を行った。当初この柱の下には斑岩の台座が、さらにその下には5段の柱脚が置かれており、この柱は合計7つの斑岩の柱身から成る柱であった。
この柱は416年に破損し鉄の輪で補強され、近年鋼鉄の輪に替えられた。頂上にはコンスタンティヌスの像をつけた柱頭が据えられ、その後巨大な十字架が取りつけられたが、それも失われた。現在この柱には6つの柱身が残されるのみであるという。


第3の丘

⑩テオドシウス広場
『イスタンブールの大聖堂』は、道路は昔とほぼ同じところを走っている。ここから西に向かう、市電の通る現在のディヴァン・ヨル通りが、かつてメセと呼ばれた大通りと重なる。メセの途中には、コンスタンティヌスのフォールム(広場)などの広場や、聖堂、店などが並んで、非常な活況を呈していた。昔も各国の人々が行き交う、国際色豊かな大通りであっただろう。メセは街を貫いて、市の西をぐるりと取り囲む城壁にいたるというが、どの城門に続いているかがわからない。
テオドシウス帝が造ったのでこの広場は、現在ではベヤズィト広場辺りではないかと思われる。そしてトラムT1線沿いに行くと、トルコ語でトプカプ(大砲)門と呼ばれ、ビザンティン帝国期にはロマヌス門と呼ばれた門に行き着くが、上図ではバレンスの水道橋に近い通り Macar Kardeşler Cd. はエディルネ門(ビザンティン帝国期にはカリシウス門)に向かっている。
この2本の通りが分岐するのが現在のベヤズィト広場の近くなので、ここがテオドシウス広場だろうと推測している。
イスタンブール大学周辺 Google Earth より


しかし、丘の上に建っていない修道院聖堂もある。ビザンティン帝国時代は、丘の上に聖堂を建てることに執着がなかったのだろう。

⑪ミレレオン Myrelaion 修道院
『世界美術大全集6 ビザンティン』は、中期ビザンティン建築で最も特徴的なのは方形ギリシア十字式プランである。その流布と変遷のなかで三つのタイプが見られる。第1のタイプはいわゆる典型的な方形ギリシア十字式の聖堂で、円蓋を4本の円柱が支え、平面図で見ると、正方形の中にギリシア十字を描いたプランで、それに内陣部が付加されている。
この中期ビザンティン聖堂建築における方形ギリシア十字式の典型的な例は首都コンスタンティノポリスに多く見られ、コンスタンティノス・リプス修道院北聖堂、ミレレオン修道院聖堂などがこのタイプに属するという。
アギアソフィア聖堂(アヤソフィア)のような巨大ドームの聖堂が建てられることはなく、オスマン帝国期になってから、巨大ドームのモスクが建てられたとは。
イスタンブール ミレレオン修道院外観 地中海紀行 ビザンティンでいこう!より

同書は、十字形に張り出す四つの腕の部分は筒形ヴォールトの天井を構成している。そして身廊の東側のヴォールト天井は内陣部の中央アプシスに通じる天井と連結する。内陣部は三つのアプシスからなり、東南小室はディアコニコンと呼ばれる典礼準備室で、東北隅はプロテシスと呼ばれる典礼用具室である。内陣部は他の空間と区別され、その仕切りとしてテンプロン(内陣障柵)が設けられる。それは中央通路の両側に小円柱を置き、それが横桁の楣石(エピスティリオン)を支え、下方に腰板を備えたものであるという。

平面図 『世界美術大全集6 ビザンティン美術』より
①聖堂入口 ②玄関廊(ナルテクス) ③身廊 ④後陣(アプシス) ⑤プロテシス(典礼用具室) ⑥ディアコニコン(典礼準備室)
イスタンブール ミレレオン修道院平面図 世界美術大全集6 ビザンティン美術 より


⑭コンスタンティヌ・リプス修道院
トラムT1線とファティフキュリエのある通りの間の通り(場所によって通り名が変わる)に面した修道院
『ビザンティンでいこう!』は、10世紀の政府高官コンスタンティノス・リプスの創建になると言われる修道院は、現在フェナリ・イサ・ジヤミイと呼ばれて、イスタンブールの大通りのひとつに面して建つ。パントクラトール修道院の重厚なドームに比して、こちらのドームはすらりと高く、華麗である。残ったわずかな壁面装飾は現在、考古学美術館に展示されているが、今でも内部に入れば、10世紀の大理石の浮彫りを見ることができるという。
一昔前にイスタンブール考古学博物館を訪れたときは、ビザンティン美術のコーナーには多数展示されていが、写真撮影が禁止だった。、今回こそと思って考古学博物館に出直すと、なんと修復中なのだった。
イスタンブールコンスタンティンリプス修道院外観 地中海紀行 ビザンティンでいこう!より

テオトコスキリオティッサ教会(現カレンデルハネジャーミイ) 
聖堂の南面
詳しくはジャーミイのページへ


⑯パントクラトール修道院(現モーラゼイレクジャーミィ
詳しくはジャーミイのページへ
『ビザンティンでいこう!』は、12世紀に建立されたもので、それぞれ大天使ミカエル、キリスト、聖母に捧げられた三つの礼拝堂からなる。内部には皇族の墓が造られた時期があった。キリストの遺体を横たえた板、という聖遺物も安置されていたが、無論、今では失われている。
ここからはステンドグラスの断片が発掘されて、西欧でおなじみの技法の起源に関して議論をよんだという。
なんと12世紀のステンドグラスが出土していたとは。このステンドグラスは、 The Byzantine LegacyPantokrator Monasteryのず-っと下の方に画像があります。

⑰アギイ・アポストリ聖堂
現在ファティフジャーミイの建つ広大な区域にはアギイ・アポストリ(聖使徒)聖堂があったが、コンスタンティノープルを陥落したメフメト二世が建物を壊して整地し、征服者という意味のファティフを冠したモスク複合施設を建造したために、何も残っていない。


⑱テオトコス・パンマカリストス修道院(現フェティエジャーミイ)
『イスタンブール歴史散歩』は、聖使徒教会の後、 1568年までギリシア正教会の総主教座だった テオトコス・パムマカリストス教会である。教会の建設は12世紀。ビザンティン美術の宝庫と言われている。この教会は 総主教座になって数年後、ムラト三世によってモスクに変えられた。その後、ムラト三世はグルジアとアゼルバイジャンの征服を記念して、これを フェティエ、すなわち勝利のモスクと名づけたという。
修復中で見学できなかった。


⑲コーラ修道院(カーリエジャーミイ)
同書は、カーリエ・モスク(Kariye Camii)も見落とすわけにゆかない。ビザンティン時代にはコーラ修道院と呼ばれたこのモスクは、いまは美術館として公開され、モザイクとフレスコ画はアメリカ・ビ ザンティン研究所の手で保存されている。アヤ・ ソフィアと並んで、この都市で最も重要なビザン ティン教会である。
コーラ(Chora)とはギリシア語で田舎を意味する。この教会が当初は城壁の外にあったためにこの名があるといわれるが、異説もあり、定かではない。
トルコ征服後もこの教会はしばらくは教会として使われていたが、16世紀初め、バヤジット二世の治世にモスクに変えられた。その後、何世紀にもわたって、モザイクやフレスコ画は漆喰や埃に蔽われ、また地震で剥げ落ちたりもしたが、いまはできる限りの修復が行われ、慎重に保存されている。カーリエ美術館のモザイクとフレスコ画 は、一日眺めていても飽きることはないというほどの聖堂だが、再び修復が行われていた。
実はビザンティン美術など全く分からなかった30年近く前に見学しているのだが、写真に残っていない。写したと思っていたが、撮影不可だったのだろうか?
イスタンブール コーラ修道院外観 ビザンティン美術への旅より


平面図
①外玄関廊(ナルテクス) ②内玄関廊 ③本堂の身廊 ④後陣(アプシス) ⑤北ドーム ⑥回廊 ⑦南ドーム ⑧葬礼用礼拝室 ⑨葬礼用礼拝室の後陣
『建築巡礼紀行17 イスタンブール』は、この教会が最初に建てられたのは4世紀、コンスタンティヌス一世の時代で、テオドシウス 二世(在位408-450)の治世に壁の内側に建てられたという。558年、大地震によって損壊したが、ユスティニアヌス帝(527-565)によって修復された。8-9世紀の聖画像破壊期には、この教会も被害を受け、その後しばらくは廃墟になっていたようである。現在の建物はアレクシオス一世コムネヌス(1081-1118)の義母のマリア・ドゥカニアによって建てられた。その後は1204年の第4次十字軍の被害もまぬがれ、正教会の僧侶の手で守られてきた。アンドロニコス二世(1282-1328)の治世に、この教会と僧院の修理のために全財産を投げうったのが、当時、財務長官であり哲学者でもあったテオドロス・メトキテスである。彼はこの建物に外ナルテックスとパレクレッション(教会の南側の葬儀用チャペル)を付け加え、それを最高のモザイクとフレスコ画で飾ったという。
11世紀後半-12世紀前半に建てられた「初期」とされている濃く塗られた部分の三方を囲むように、薄く塗られた部分が13世紀後半-14世紀前半に建て増しされた。元はなんと小さな教会だったのだろう。
イスタンブール コーラ修道院平面図 ビザンティン美術への旅より

葬礼用礼拝室(パクリシオン)後陣のフレスコ 復活(アナスタシス)
『ビザンティン美術への旅』は、西欧で「復活」は、墓から立上がるキリストによって表現されるが、正教圏ではハデスの扉を破り、アダムやエヴァを救う「冥府下り」のキリストが「復活」を表象する図像である。 死者の復活を願って、この墓廟用礼拝堂にはアナスタシスの主題が描かれたという。
冥府下りの場面よりも、下段の聖人たちの衣装の文様が印象的だった。
以前のテレビ番組で、染織家の志村ふくみ氏がここを訪れて、聖人あるいは歴代の司教たちの着衣の文様に魅入っていた姿を思い出した。100歳になられてもなお染織を続けられていることをしむらのいろで知った。100歳になっても海外旅行に行くぞと思っている私にとっては励みになります。リハビリ頑張ろうっと。

キリスト教美術を少し齧った今、再訪してゆっくりと眺めてみたいものだ。
イスタンブール コーラ修道院葬礼用礼拝室後陣のフレスコ ビザンティン美術への旅より


⑳テクフル宮殿
同書は、ふたたび城壁沿いに北へ進む。エディルネ門か600mくらい先でテオドシウスの城壁は終わる。
そこから先は後に築かれたマヌエル・ノープル攻防戦に際して、なぜかこの門の守備が薄かったため、トルコ軍のイエニチェリたちはこの門から市内に攻め入ったといわれる。三日月の旗が最初にこの都に翻ったのは、この門の近くの塔であった。
クシロケルコウ門と接して、いまは廃墟と化しているが、ビザンティン時代の重要な建物の残骸が残っている。トルコ語でテクフール・サラユ (Tekfur Sarayı=王宮)と呼ばれるこの宮殿は、13世紀後期から14世紀初期にかけて建造され、ビザンティン末期の2世紀の間、皇帝の宮殿のひとつとして使われた。三階建てで、城壁の外壁と内壁の間に築かれている。すぐ近くにあったという。
現在では修復されているので見学してきたそれについてはこちら

テオドシウスの城壁の外壁と内壁 

こぢんまりした三階建ての宮殿


㉑ブラケルナエ宮殿はどの辺りにあったのだろう。


㉒黄金門
『ビザンティンでいこう!』は、テオドシウスの城壁は観光用に修復再建された部分も少なくない。その部分はいかにも色が新しく、風情がないが、中世の趣をよく残しているのは、三角形の底部西隅、黄金門のあたりである。
ビザンティン皇帝が外国で戦争をして街に凱旋してくるのが、この黄金門からであった。かつてコンスタンティノープル市民が、この一帯に立錐の余地のないほど集まって、凱旋する皇帝を歓呼で迎えたことなど、今日では想像し難いほど人気のない場所である。門のいちばん外側にお堀、内側に三重に、だんだんと土台が高くなる壁。壁の要所要所には、方形や八角形の塔が造られ、兵士が警護にあたったという。
イエディクレ平面図 イスタンブール歴史散歩より

『イスタンブール歴史散歩』は、城壁に組み込まれた4本の塔の中央に、アーチ型の門がある。これが有名なローマ時代の凱旋門黄金の門である。390年頃テオドシウスⅠ世がこの門を建てたときは、城壁はなく、門だけであった。門はその名のとおり黄金の板で蔽われ、ファサードは彫刻で装飾されていた。20年後、テオドシウスⅡ世が城壁を拡張するとき、黄金の門は城壁に組み入れられたのであるという。





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参考サイト

参考文献
トルコ・イスラム建築」 飯島英夫 2010年 富士房インターナショナル
「世界美術大全集6 ビザンティン」 責任編集高橋滎一  1997年 小学館
「イスタンブール歴史散歩」 澁澤幸子・池澤夏樹 1994年 新潮社
「建築巡礼紀行17 イスタンブール」 監修香山壽夫 1990年 丸善株式会社
「ビザンティン美術への旅」 写真赤松章 文益田朋幸 1995年 平凡社
「地中海機構紀行 ビザンティンでいこう!」 益田朋幸 2004年 山川出版社