ミマールスィナンはアヤソフィアジャーミイ(ビザンティン時代にはアギアソフィアと呼ばれていた)の修復と共に、ミナレットやスルタンの墓廟も境内の中に築いたという。
『Architect Sinan His Life,Works and Patrons』(以下『Architect Sinan』)は、1453年、メフメト征服王がイスタンブールを征服したとき、アヤソフィアが街と同様に壊滅状態にあることを発見した。征服の3日目に当たる金曜日、メフメトは兵士たちとともにアヤソフィアで金曜礼拝を行い、キリスト教の主要な聖堂をイスラム教のモスクにした。その時期、メフメトはアヤソフィアの半円形のドームの上に木製のミナレットを建てさせた。メフメトはアヤソフィアを非常に崇敬し、彼の後のスルタンたちも彼と同様にこの建物に敬意を払ったという。
半円形のドームは二つあるがどちらだろう。また同書は、1566年にセリム二世が即位した。その時期、アヤソフィアは家々に囲まれており、家々のいくつかは建物の壁に寄りかかっていた。
また、同じ時期に、建物の本体にわずかなずれが見られていた。
セリム二世は、ミマールスィナンとともに、現場の問題を観察した。スルタンは、これらの問題を解決するとともに、ディヴァン会議でアヤソフィアを周囲の家々から救う決定を下す任務を建築家に与えた。まず支柱に寄りかかっている家屋を所有者に代金を支払って取り壊し、その後周囲の家屋もすべて取り壊して周辺を清掃することになっていたという。
セリム二世の父スレイマン大帝時代にマトラークチュユスフが描いたイスタンブールの絵図にトプカプ宮殿とアトメイダヌ広場に挟まれたアヤソフィア聖堂が描かれている。その周囲には今はない建物がいろいろと描かれているが、寄りかかるほど近くには建物はない。マトラークチュユスフは、当時の主要な建物だけを描いたのだろう。
この絵には2本のミナレットが描かれているのは、メフメト二世の時代に建てられた半円形のドームの上に置かれていた木製の塔(15世紀後半)と、❻南東にあるレンガ造りのミナレット(1509年頃)しかないはずだが、半ドームの上にミナレットはのっていない。
モスクに改築されたアヤソフィアには、異なる時期に四つのミナレットが追加されたという。
➊主ドーム ➋ミフラーブ ➌北東のミナレット(セリム二世) ➍北西のミナレット(ムラト三世) ➎南西のミナレット(ムラト三世) ❻南東のミナレット(レンガ造り) ➐セリム二世廟 ➑ムラト三世廟
付近を歩いていても4本のミナレット全てが見える所は少ない。
左より➍北西のミナレット、❻南東のミナレット ➌北東のミナレット
『MUSEO DI SANTA SOFIA』に4本のミナレットが見える写真があった。
ミナレットが建てられた年代順に、
後陣側の❻南東のミナレット
同書は、メフメトの息子バヤズィト二世はトプカプ宮殿側のアヤソフィアの角にミナレットの建設を命じた。 1509年にそのミナレットが取り壊されると、現在南東の角に見られるレンガ造りのミナレットが建てられたという。
1509年というとまだバヤズィト二世(1481-1512)の時代、そしてこのレンガ造りのミナレットを建てたのは、ミマールスィナンよりも前の建築家である。
『トルコ・イスラム建築紀行』は、トルコ三角形の手法を高度に発展させたものである。衣装の襞に似ているので、トルコ襞とも呼ばれる。平面の三角形に替わり、立体的なプリズム状の三角形を複雑に組み合わせ、装飾性を高めた手法である。
初期の例は、オスマン朝の最初の建物イズニキ・ハジュオズベキジャーミシで見られ、以後のオスマン朝の建築で使用された。ブルサ・イェシルジャーミの時代に最高度に発達した。15世紀後半からは、ドームの架構法としてはペンデンティブの手法が主流になったので、この手法は廃れたという。
ブルサのイェシルジャーミイは後に行ったので、後日旅編にて。
16世紀初頭にトルコ襞というドームを架構するための古い技法が、ドームではなくミナレットの基部に使われたとは。
ただし『MUSEO DI SANTA SOFIA』は、アヤソフィアがモスクに改築されてすぐに、征服王メフメト二世は半ドームの一つの上に木製のミナレットを建てた。南西側のレンガ造りのミナレットの建築様式を詳しく見ると、基部から胴体に向かう移行部に大きな菱形のモチーフが存在することから、メフメトの時代のものであることは明らかであるという。
このトルコ襞が1453年にコンスタンティノープルを陥落したメフメト二世時代のものならば納得できるが、半ドームの上に造られたものでもなく、木製のミナレットでもない。
後陣側に建てられた➌北東のミナレット(セリム二世)
『Architect Sinan』は、1573年6月21日、セリム二世は、メフメト二世の時代に建てられた半円形のドームの上に置かれていた木製の塔を撤去するよう勅令を出した。
スィナンは木製のミナレットを撤去したという。
この時まで、つまり父スレイマン大帝の長い統治期もずっと、アヤソフィアの半ドームの上には木造のミナレットがあったのだった。
同書は、アヤソフィアを高く評価していたセリム二世は、建物に2本の新しいミナレットと墓を増築することを望んだ。その作業はスィナンによって開始されたが、スルタンは自分の願いが叶うのを見ずに没した(1574)。
バブ・イ・ヒュマユン(皇帝の門)側のリブ付きミナレットは、セリム二世の時代にミナレットの半円形のドームがあった基壇の前にミマールスィナンによって建てられたという。
頂部にタイルパネルはないが、何かが嵌め込まれていた痕跡がある。アザーン(トルコではエザーン)を朗唱するムアッズィンが登ったバルコニーにはムカルナスの装飾がある。
また、基部には鋭角の三角形を用いて円筒形へと収縮させている。これもトルコ三角形と言えるのかな。ミマールスィナンがこういうものを用いていたとは。
アヤソフィアジャーミイ セリム二世のミナレット Architect Sinan His Life, Works and Patrons より |
残念ながら修復中だった。今はもう完成しているだろうか。
『Architect Sinan』は、その後、ミマールスィナンは建物の修復と強化に関連する問題にとりかかった。まず、重い建物が動かないように、マルマラ海まで50mごとに地中に強固な壁を建てた。
その後、ビザンティン時代に建設された建物を支えるために、基板を増築して建物を強化した。ミマールスィナンが使用したこれらの対策のおかげで、建物が今日までしっかりと残っている。
建物は強固な基壇で支えられ、勅令で命じられた通り、鉛材料で必要な部分を覆うとともに、内外装の修復が行われた。
セリム二世の時代に開始されたアヤソフィアの修復、維持、拡張作業は、彼の後に即位した息子のムラト三世(1574-95)の時代にも継続されたという。
ミマールスィナンは100歳近くまで長生きし、1588年に亡くなっている。
『MUSEO DI SANTA SOFIA』は、南西と北西を向いた一対のミナレットも、ムラト三世の治世下に建築家ミマールシナンによって建てられた。高さ 60mのミナレットは、太いリブとずんぐりした胴体を持つ。 15世紀、16世紀、19世紀に行われたミナレットの修復中に、それぞれの時代に特有のさまざまな装飾が追加されたという。
細かな修復での改変はわからないが、アザーンのバルコニーにムカルナスがない。またミマールスィナンは、基壇にはセリム二世のミナレットと同様に細長いトルコ三角形を用いている。
アヤソフィアジャーミイ ムラト三世の2本のミナレット Architect Sinan His Life, Works and Patrons より |
ミナレットの基部については、これまで注意して見てこなかったことに気がついた。次回イスタンブールで訪れたミマールスィナンのミナレットがとんなだったかまとめよう。
話は変わってセリム二世とムラト三世の墓廟。もちろんどちらもミマールスィナンが建てた。
残念ながら修復中で内部はおろか、外側も木々に阻まれて、なんとか右の➐セリム二世廟と左の➑ムラト三世廟が見えた。
『MUSEO DI SANTA SOFIA』は、セリム二世は、ミマールスィナンにアヤソフィアの近くに自分の墓を建てるよう命じたが、1574年に亡くなった時点では未完成で、3年後(1577)に完成したという。
この間、セリム二世はエディルネにセリミエジャーミイを建設させている(1568-75)が、何故セリム二世はイスタンブールではなく、遠く離れたオスマン帝国の古都エディルネにモスクと複合施設を建てようと考えたのか、そしてそこに自らの墓廟を併設せずにアヤソフィアの境内に造らせたのか、不思議だ。
セリミエジャーミイについても後日
同書は、八角形の建物の外観は全面大理石で覆われている。角のうち四つを広く、残りの四つを鋭角に保つことで、建物は非常に独特であるという。
同書は、ファサードに大きな庇を設けた柱廊玄関によって堂々とした外観となったという。
柱廊玄関の奥行きでいうとスレイマン大帝廟よりも深いのでは。
同書は、入口両脇に白地に紫、赤、緑、青の花の装飾が施されたタイルパネルが2枚配置された。ただし、左側は修復のためフランスに輸送されたが、オリジナルの作品は現在、ルーヴル美術館で保管されていて、ここにはそのコピーが展示されいている。
コーランの一節は、コーニスの前面の上の大理石の板に金で刻まれたという。
あれ、柱頭が左右で異なっている。右はムカルナスで左はロータス形。誰に、あるいはどの本でこの形をロータスと思うようになったのだろう。『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』ではダイヤモンドとされていた。
平面図 『THE ARCHITECT AND HIS WORKS SİNAN』より
左:平面の外枠は八角形というよりも面取りした正方形だが、ドームを支える8本の円柱は等間隔に配置され、上部にペンデンティブをのせるための正八角形をつくっている。
右:ペンデンティブの下からの平面図。外からは狭い四隅に半円よりも深い奥行きを造っている。
内部
同書は、中には42基の石棺がある。ファサードに面して、セリム二世、その隣には1585年に亡くなったヌルバヌ、ムラト三世の母親。他には、ソコルルメフメトパシャの妻であり、後にカライルコズアリパシャの妻となったエスマハンが葬られているという。
この時はまだイズニクタイルの最盛期なので、ふんだんに使っている。
スレイマン大帝廟は外観も内部も正八角形で、その角々に円柱を立てているが、ここでは床は正方形で、円柱で八角形をつくっている。
残念ながらムラト三世廟は図版も説明文もない。
修復中で見られなかったジャーミイ(ビザンティン時代の聖堂をモスクにしたものも含む)がいろいろとあるので、修復が終わったいつの日にか一緒に見学したい。
現地ガイドのギュンドアンさんは、「スィナンはアヤソフィアのドームの補強にバットレスを使いました。その技術がこのセリミエジャーミイにも用いられています」と、エディルネのセリミエジャーミイのドームを見上げながら教えてくれたのだが、書物にはそのことを書いたものがない。
ギュンドアン氏が指摘したのは、ドーム下の窓の間にある分厚い控え壁(バットレス)のこと。
自分の消えかかった記憶では、ミマールスィナンはアヤソフィアのドームか何かの修復に携わり、その時に「いつかこのアヤソフィアを超えるドームを造ってみたい」と思うようになったと思っていたが、それがどの本に書いてあったかもわからない。
参考文献
「Architect Sinan His Life, Works and Patrons」 Prof. Dr. Selçuk Mülayim 2022年 AKŞIT KÜLTÜR TURIZM SANAT AJANS TIC. LTD. ŞTI
「MUSEO DI SANTA SOFIA」Anatolian Cultural Entrepreneurship