アケメネス朝ペルシャ、ダリウス(ダレイオス)Ⅰ期に、スーサで彩釉レンガを組み合わせて1つの形を構成するという建築装飾が行われた。それは完成度の高い、色の滲まないものだった。
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、釉薬の色は黄色(アンチモン鉛)、青緑色(銅)、黒(褐)色(マンガン鉛)、白色(錫)、明るい青(コバルト)などであるが、純粋の赤色はないという。
メソポタミア展でペルシャの射手は黒い輪郭線だと思っていたが、段々と青く、そして盛り上がった線だとわかった。
植物文の一部? 彩釉煉瓦 イラン、スーサ出土 前6世紀末~5世紀前半 9.0X13.4X3.6㎝ 岡山市オリエント美術館蔵
この彩釉レンガは輪郭線が盛り上がり、しかも青いことがよくわかる遺物だ。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、灰白色の石英質の胎土に釉を施したもので、図柄の輪郭線を描いて焼成した後、その間にさまざまな色彩の釉を施して焼き上げたものであるという。
ということは「上絵付け」になる。この時代に複数回焼成するということが行われていたのだ。
もっと以前に、現イランの地には彩釉レンガがあった。
彩釉レンガ イラン、チョガ・ザンビル、ジグラット出土 エラム中王国時代(前13世紀)
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、前1500年から前1000年にかけてはエラム中王国時代とされている。
ウンタシュ・ナピリシャ王(在位前1275-1240)が新都アール・ウンタシュ・ナピリシャ(現在名チョガ・ザンビール)を建設している。1250X900mにわたる楕円形の都市で、中央にジッグラトを含む聖域があるという。
アケメネス朝ペルシア以前にもスーサに近い都市で彩釉レンガが焼かれていたようだ。
『図説ペルシア』は、レンガはかつて青く彩釉されていたが、一部にそのレンガがはめこまれて保存されている箇所もあるという。
しかも建物全体が青かったらしい。
そう言えば、バビロンの彩釉レンガ(前580年頃)のライオンの背景は色はあせているが青色だった。ベルリン国立博物館西アジア美術館に復原されたイシュタル門は、バビロンにあった頃は、遠くから見ると青い門に見えただろうと想像するほど青い彩釉レンガが多く使われている。
メソポタミアでは青色の釉薬の原料コバルトが豊富に調達できる地域だったのだろう。
『図説ペルシア』は、古代中近東には神と結びつけて山を崇拝する風習があった。イラン高原の山々をイメージした巨大なジグラットは、メソポタミアの平野に多数建造された。このチョガ・ザンビルにあるジグラットは、アケメネス朝成立以前の紀元前13世紀、エラムの王ウンタシュガルが、スーサより南東40㎞の地点に建造したものであるという。
ジッグラト、ジグラット、ジグラート、その土地ごとに発音が少しずつ違うのだろうが、山をイメージしたものだとは気づかなかった。
1辺が約100mのジグラットは、約400mX450mの2辺の壁にかこわれ、さらに約1200mX800mの城壁に、四方がおおわれている。4段からなるジグラットは、高さ43mという。
43mもあって、青一色だったとすると、土の色しかない平原なら遠くからでも目立っただろう。
チョガ・ザンビールの場所はこちら
復元図
何故ウンタシュ・ナピリシャ王が建設したものだとわかるかというと、銘文入りのレンガが発見されたからである。
ジグラットの外壁に刻まれている楔形文字
刻みこまれているのはウンタシュガル王と20人以上の神の名前という。
『オリエントのやきもの』は、メソポタミアの王は、その在位中に建設した公共建築物に自分の名を残すのがしきたりになっていた。また、シュメール時代や古代バビロニア時代では、土釘などに短い碑文を刻むのが普通だった。このタイプの土釘は、建物のれんがの間に所有の印として差し込まれたもので、家を新しく入手する時に釘を槌で叩き込むというしきたりの延長として使用されたという。
クレイペグから平たいレンガにに文字が記されるようになったのだ。しかも楔形文字を刻むのではなく、印章に刻んで押しつけたらしく、陽刻となっている。表面が歪んでいるので円筒印章だったかも。
今ではチョガ・ザンビールもスーサもイランの領土だが、ジッグラトはメソポタミアに先例があるはずだ。
※参考文献
「世界のタイル日本のタイル」 世界のタイル博物館編 2000年 INAX出版
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市オリエント美術館
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社
「タイルの源流を探って オリエントのやきもの」 山本正之監修 1991年 INNAX BOOKLET Vol.10 NO.4
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 1988年 講談社