2010/05/21

ジッグラトの起源

ジッグラトは何時頃から造られるようになったのだろう。

チョガ・ザンビールのジッグラト復原図 前13世紀 イラン
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、市壁をはじめ、建材はもっぱら日干レンガ(規格は40㎝四方、厚さ10㎝)だったが、ジッグラトは焼成レンガをふんだんに用いており、当時の建設事業としては大いに贅を尽くしたものだったことがわかるという。
壁面には写真で見るよりも細かい凹凸がある。

ジッグラトはこのように縦に凹凸があるのだろうか。

ウルのジッグラト復原図 前21世紀 イラク
ウルナンム王の時代に様式的に確立したウルのジッグラトには、次のような特徴があった。
ジッグラト自体の足元を固めるテラス(エテメンニグルという別称をもつ)とその前庭それぞれを、凹凸のある二重構造の壁で囲う。
ジッグラト本体にあたる階段ピラミッド状の部分は、粗製の日干レンガを積んで核とする。
本体の外面から2m余りの厚さを焼成レンガ積みの被覆とする。
基底部の輪郭は62.5X43.0mの長方形で、正面前方と左右に長大な階段が取り付く。
上部は3段に築造され、高さは21mほどあったと推定されるという。
日干レンガを核にして外観を焼成レンガで飾ったようだ。『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、焼成煉瓦の場合は、早くにジッグラト(聖塔)の被覆に用いられた例からわかるように、上塗りせずに目地をそのまま見せるのが普通だったという。
やっぱり縦に凹凸があるが、壁面の頂部に達していない凹面がほとんどだ。これは扶壁(バットレス)のように、荷重に耐えるためのものだろうか。
ウルク、白色神殿復原図 イラク、サマワ近郊 前3300年頃    
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、シュメール文明を代表するウルクの遺跡では、ウルク文化の後半期にあたる前3500年ごろ以降、豊穣神イナンナを祀る聖域エアンナと天空神アヌの神殿基壇が隣り合いながら発達した。ウバイド期にはエリドゥの神殿に類する三分形平面の神殿が建っていた。それを継承した神殿が幾世代も経た結果、この時期には高い基壇の上に建つようになる。通称を「白色神殿」というように、建物内外の全面を白漆喰で仕上げた。同様な基壇の発達を見たエリドゥの神殿とともに、メソポタミア建築独特の建造物ジッグラトの祖型とみられているという。
この白色神殿と呼ばれているものがジッグラトの祖型らしい。
『砂漠にもえたつ色彩展図録』は、日干煉瓦を積んだ建物は、煉瓦の素材と違わない泥や、ときには漆喰で必ず上塗りし、煉瓦目地を隠してしまうのが普通だから、壁面の表情はひじょうに素っ気ないという。
しかし、強度を持たせるためか、視覚効果を狙ったのか、壁面の凹凸はかなりのインパクトのあるものだ。聖塔そのものは縦の凹凸だが、基壇と思われる部分は斜めに凹凸がある。
凸をとらえて「控え壁(バットレス)と表現されることもあるが、造りの上で凸部も凹部もほぼ同等に壁本体であることが多い。凹凸の起源については住宅にはすでに採用されていた控え壁に求める見解のほか、木造や葦作りの家屋にあった柱形に求める説もある。起源はともかく、こういう外壁が陽にあたると凹部の陰りは凸部の輝きをより強調する。もはや構造的に観点をはなれ、陰影のリズムこそ人々の求める建築の装いだったという。
何一つ遮る物のない場所に降り注ぐ太陽の光線は、この白色神殿を白と黒の縞模様に見せていたかも知れない。それは乾いた空気の真っ青な空の下では、真っ白な建物よりも強烈な印象を人々に与えただろう。   
建物も景色も、すっきりしない天気の時に見るのと、澄んだ青空で見るのとでは大きな違いがある。そうすると、チョガ・ザンビールのジッグラトが、レンガはかつて青く彩釉されていた(『図説ペルシア』より)なら、青い空に青い建物は目立たなかったのでは。

ウル・ウルクは地図でこちら

関連項目
ジッグラトがイラン高原の山だったとは

※参考文献
「砂漠にもえたつ色彩 中近東5000年のタイル・デザイン展図録」 2001年 岡山市オリエント美術館
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「図説ペルシア」 山崎秀司 1998年 河出書房新社
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 1988年 講談社