2008/04/12

もう1つのつくりやまは岡山市の造山古墳


作山古墳から東に向かうと、備中国分寺の五重塔が見えてくる。岡山らしく桃畑が満開だった。 作山古墳と違い、どの道を通れば良いのかわからなかった。狭い道をあっち行きこっち行きしながらやっとたどり着いた駐車場。説明板に、墳丘上には円筒埴輪や形象(家・盾・靭)埴輪が樹立されていたというのがなんとなく想像できる木々の透け方やなあ。古墳から駐車場を眺めるとこんな感じ。新しい家屋が多いが、風情のある造山集落やねえ。上から見ると、駐車場の向こうにはちゃんとした道路があり、どんどん車が通り抜けていた。なんでこうも変な道に入り込んでしまうのだろう。その家並みを縫う路地を通って造山古墳へと近づいていく。ちゃんと案内があった。 前方部へと階段がついている。この古墳も段々になっている。説明板によると、古墳は自然丘陵を削りあるいは盛り土して、三段に築成されているという。幅約215mという前方部には神社があった。荒神様というらしい。神社の向こうに石棺があった。 刳りぬき式の舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩製で蓋には直弧紋が刻まれているなど九州地域の石棺の特徴を持っています。近くの新庄車塚古墳から運ばれたものとも、当古墳の前方部から出土したとも伝えられているという。こちらも発掘調査されていないのだ。蓋はどこかの博物館にでもあるのだろうか。 後円部へ。桜が満開なのに人気がない。突然不思議な光景が目に入ってきた。 道は桜並木の中央にあって、その後右側へと向かっている。段々畑にして使われていたと思ったが、くびれ部両側に台形の造り出しを設けているという。後円部径約200m、高さ約24mという。作山古墳は後円部に木が生えていたが、造山古墳は後円部を立木が取り囲んでいて広々としている。 ところがそこには道がなく、周囲に踏み跡があるので、一周することになった。東南部に土手があるのが気になった。やがて土手まで来てしまった。土手はなんのためにあるのだろうか。 遠方から全体を見た。全長約360mの前方後円墳で、5世紀前半に築造された。大阪府にある大山(伝仁徳陵)古墳(486m)、誉田御廟山(伝応神陵)古墳(420m)、上石津ミサンザイ(伝履中陵)古墳(365m)に次いで、全国でも第4位の規模の古墳である。その規模から、造山古墳の被葬者は、畿内政権と肩を並べるほどの力をもっていた吉備の大王の墓と想定されているという。吉備の大王の石棺が九州地方の特徴があるというのは、九州も勢力圏だったということ?作山古墳に先だって築造された大古墳は単独の古墳ではなかった。陪塚のあたり 前方部に続いて丘があり、その中に小さな墳丘が複数あった。 近づいて車中から撮ることができたのはこれだけ、段のある円墳かな。駐車場にあった説明パネルには、1~6号の陪塚(ばいちょう)が紹介されていた。陪塚は主要古墳被葬者の家臣や近親者などの墳丘のことで、中国の古墓では陪葬墓などと呼ばれている。