2008/01/16

新沢千塚126号墳にも歩揺冠、しかも金製


新沢千塚126号墳から出土したすごいものはガラス碗だけではなかった。小さな四角形の透彫の板にもまた歩揺がついていた。藤ノ木古墳の全貌展で見た金銅製の冠に続いて同じ日に歩揺冠をまた見るとは思わなかった。しかもこの方形冠飾りは金製だった。 
『海を越えたはるかな交流展図録』によると、
厚さ0.18㎜、横84㎜、横83㎜のほぼ正方形で、周囲に円形歩揺を計32か所(現存23個)とりつける。周囲に連続する鋸歯紋、中央に左向きの龍文、その上下に横向きのS字文をそれぞれ透彫りにし、四隅には各3個の小孔があり、これで帽に綴じつけていたことがわかる。
この金具は、出土位置で頭部の前面を飾っていたと想定できる。同じ形の金具は中国遼寧省房身2号墓に2枚あり、それ以降もこの地域に集中して類例が増えていて、その系譜は特定できる
 
ということだ。鋸歯文と横向きのS字文はわかりやすいが、中央に表されているのが龍とは。
6世紀後半の藤ノ木古墳では、歩揺冠は足元に置かれていたが、5世紀中葉とされている新沢千塚126号墳では歩揺冠は頭部から出土している。
『日本の美術445黄金細工と金銅装』によると、
新沢千塚126号墳の刳抜木棺内には、ちょうど頭の額に当る部分に、冠飾と思われる純金製の龍文透彫方形飾板が副葬されていた。周囲には打出しの手法で裏面から半球状に盛り上げた山形の座に28箇の歩揺を金線で装着するが、四角にそれぞれ三つの孔を穿っているのは、おそらくは冠帽に綴じつけるためのものであろう。透彫文の周囲には鋸歯文帯が廻っているが、これも三角形の透彫部分を裏に折り曲げて冠帽への装着用としたらしい。
冠帽もなく冠帯も見当らないところをみると、いずれも布製だったものが腐蝕消滅した可能性が高い
 
ということだ。藤ノ木古墳出土の金銅製歩揺冠とはだいぶ趣の違ったものだったらしい。
方形金製冠飾 百済、錦城洞武寧王陵出土 6世紀前半 韓国国立公州博物館蔵
同書によると、金属製の冠帯・冠帽を伴わず、同類の方形歩揺付金製冠飾を出土した例としては、韓国・公州の武寧王陵がある。日本に仏教を伝えたことで良く知られている百済の聖明王の父君である。武寧王は癸卯年(523)に崩じ、丙午年(526)に没した王妃ともども、己酉年(529)に、公州市郊外にある宋山里に合葬されたが生前すでに築造を了えていた中国南朝系の塼室墓である。方形金製冠飾は、その王妃の棺から発見されたもので、冠帽の正面飾板であったと目される。両側面を飾っていたと思われる火焔状の金製茎葉文冠飾と一具をなしていたらしいということだが、時代的に新沢千塚126号墳出土のものよりも1世紀以上も後のものだった。透彫がないなど、方形冠飾の衰退期のようだ。
金製方形冠飾 中国、遼寧省朝陽郊外房身2号晋墓出土 4世紀中葉~5世紀初頭 遼寧省博物館蔵
同書によると、方形金製冠飾他に、方形ではないが上辺のみを花先形に突出させた金製透彫山形冠飾と同じく山形ながら仏像を背面から打ち出した金製歩揺冠飾の2点が近在の馮素弗墓で出土している。
房身2号墓では方形冠飾のほか、木の葉形の歩揺を金板に着し、いかにも聖樹を連想させるような金製歩冠飾とやはり歩揺付の金製帯板が出土しているから、3点1具をなして1つの冠を形づくっていたようである。
いずれも4世紀中葉から5世紀初頭に比定される遺品であり  ・・略・・
特に房身2号墓からは3件の冠飾のほか、金鈴・嵌玉指輪  ・・略・・ 金環など多岐にわたる黄金製品が副葬されており、古代鮮卑族の墓であることから、鮮卑族の黄金文化伝播の役を担った北方遊牧民達の活動の実態が彷彿とさせられる
という。 百済か新羅からの渡来人と関係があるのかと思ったら、鮮卑族の名がでてきた。北魏を建国した拓跋氏だけが鮮卑族ではないが、面白い展開となってきた。

※参考文献
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)
「日本の美術445黄金細工と金銅装」(河田貞 2003年 至文堂)