2007/07/18

五台山仏光寺大殿は



この度旅行するまでは、私にとって山西省は遠いところだった。シルクロードやその出発点でもある古都長安(明代に西安と呼ばれるようになった)からも、中国文明の原点、殷周があった中原からも離れているので、ほとんど知識がなかった。下華厳寺で買った『山西古建築通覧』で五台山が山西省に属していることを知ったくらいだった。

『週刊中国悠遊紀行14 雲崗石窟と五台山』によると五台山は、峨眉山、普陀山、九華山とともに、仏教四大名山のひとつで、文殊菩薩の道場とされてきた。
山頂が平らな5峰から形成されているため、五台山といわれるが、別名を清涼山という。最高峰の北台頂は標高3058m、夏でも涼しいことから、こう呼ばれたのである
という。

現在はその中心部(台懐鎮寺廟群)に元代創建というチベット仏教の塔院寺大白塔が目立っているので、五台山といえども、度重なる戦乱で寺院は何度も焼失し、現在ある建物にはあまり古いものはないと思いこんでいた。 上の写真は五台山のほんの一部であることが下の地図でわかるのだが、翼角斗栱が見つかった仏光寺の大殿はその南西部の端にある。
『世界美術大全集4隋唐』 は、五台県の東北32Kmの豆村にある。中国に現存する木造建築遺構として、南禅寺大殿、広仁王廟大殿についで3番目に古く、本格的な規模の仏殿としては最古のものである。仏光寺は北魏、孝文帝(在位471-499)のときに創建され、  ・・略・・  「会昌の滅法」により破壊され、その後の大中年間(847-860年)の復法に伴って再建された。伽藍は西向きの傾斜地に段上に立ち、大中11年(857)にさらに上段に現在の大殿が再建されたという。
『週刊中国悠遊紀行14 雲崗石窟と五台山』は、『華厳経』のなかに文殊菩薩のすみかとして清涼山の名がみえる。名前が同じことから、五台山の仏教は文殊信仰と結びつき、聖地としてその名を馳せていったのであろう。また、ほかの三山と異なり経典に名前があるため、四大名山のなかの第一の聖地とうたわれる。
雲崗石窟と同じ北魏の時代に創建された寺院が多いが、南北朝時代には200余、最盛期の唐代には360余の寺院があったといわれる。文殊の聖地五台山は仏教者のあこがれで、インド、朝鮮、日本からも巡礼者が絶えなかった
という。

日本人にもなじみの寺だったようだ。仏光寺は山の斜面にあり、周辺には黄土高原の段々畑が見える。この山は太行山脈の中にあるのだろう。 五台山の様子は、唐が滅んで、宋が建国するまでの五代十国時代(907-960年)に、敦煌莫高窟第61窟の西壁に描かれた。 その中に(上図矢印の部分を拡大)大仏光之寺として、描かれているのだが、どれが大殿かわからない。仏光寺大殿は、山の斜面に基壇を積んだ上に建てられているのと、周壁に囲まれているので、正面から全体を捉えることができない。
大殿前には経幢がある。仏塔は四角形?八角形?十二角形? で塔が八角形になる端緒となったものとして立面図を挙げたもので、唐、乾符4年(877)につくられた、高さ4.9mの石造のものである。基部の8面にそれぞれつくられた格狭間には横向きの象が1頭ずつ浮彫にされていて、幢と基部の境目には8頭の獅子が上半身を現している。この獅子たちが上下の石と色が異なっているように見える。
ここにも大殿の翼角斗栱が少し見えている。両華厳寺の組物と比べると華奢に見える。 『世界美術大全集4 隋唐』は、大殿は、間口7間、奥行4間、単層寄棟造(たんそうよせむねづくり)で、殿内には入側柱(いりがわばしら)が立ち、身屋(もや、中央)に須弥壇を築いて釈迦・弥勒・阿弥陀の三主仏、普賢・文殊の両菩薩、力士の塑像群が立ち並ぶ。身屋の部分の天井は四手先斗栱(よてさきときょう)で持送った大虹梁(だいこうりょう)の上に支輪を折上げて平闇(小組格天井、こぐみごうてんじょう)とし、庇の部分も繋(つなぎ)虹梁の上に平棊(へいき)を造るという。

唐というと、ぼてっとした仏像や、婦人三彩俑がまず頭に浮かぶので、もっとごてごてと飾り立てた殿内を想像していたが、すっきりと直線の多い建物であるのと、余計な装飾がないすっきりしたものであることがわかった。 こういう唐代の建築の伝統を継承して、遼時代に寺院が建てられたのだ(『図説中国文明史8 遼西夏金元』より)。

※参考文献
「山西古建築通覧」 李玉明主編 1987年 山西人民出版社

「世界の文化史蹟17 中国の古建築」 村田治郎・田中淡 1980年 講談社
「週刊中国悠遊紀行14 雲崗石窟と五台山」 2004年 小学館
「世界美術大全集4 隋唐」 1997年 小学館
「図説中国文明史8 遼西夏金元」 劉煒編・杭侃著 2006年 創元社

※参考ウェブサイト
古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説などより斗栱と蟇股のお話