2007/07/16

宋・遼・金代の翼角斗栱は唐代の五台山仏光寺大殿にも



山西省の省都太原の西南郊外にある晋祠は様々な建物がある広大なところだった。その中心的な聖母殿の建物に、応県木塔で気になった尖った尾垂木がたくさんあった。応県木塔のものよりも尖っているし、数がはるかに多い。
聖母殿は北宋、元祐2年(1087)頃建立(『山西古建築通覧』による)ということで、年代的には合っても、当時は契丹族の遼と漢族の北宋と、別々の国に属していた。敵対する国どうしで文化的な行き来があったのだろうか。 日本すきま漫遊記の組み物の各部の名称には尾垂木を、組み物の途中に斜めに突き出して、斗を載せているいる材。写真では見えない右上の内部で屋根の荷重を受けているため、“てこ”のように斗を押し上げているという。
なお、今回の旅行で買ってきた『山西古建築通覧』では、私が「尖った尾垂木」という表現をした部分を翼角斗栱と呼んでいるようだ。その翼角斗栱は華厳寺にもあることに気がついた。

まず、遼代の下華厳寺薄伽教蔵殿には、下写真の矢印のところに見える。間隔のあいた組物の1ヶ所にだけ翼角斗栱があるので、気にならなかった。翼角斗栱は金代の上華厳寺大雄宝殿にもあった。 大雄宝殿では、1つおきか2つおきに翼角斗栱がある程度だった。 両華厳寺や応県木塔の翼角斗栱は、角材をすぱっと斜めに切ったように直線的に見えるが、晋祠聖母殿のそれは、ナイフで鉛筆を削るように角材を削ったように見える。それは地域性なのだろうか?
『山西古建築通覧』を見ていると、他にも金代の寺院建築があった。
それは朔県崇福寺弥陀殿で、数多く翼角斗栱があった。 その他の金代の建築といえば、五台山の中の仏光寺文殊殿がある。天会15(1137)年建立だが、翼角斗栱があるかどうかわからない。  ところが、同じ仏光寺の大殿に翼角斗栱があった。そして、この大殿はなんと、唐代大中11年(857)創建の建物だった。 唐代にすでに翼角斗栱があったのなら、太原も大同も唐だったので、どちらにもあって不思議ではなかったのだ。

※参考文献
「山西古建築通覧」 李玉明主編 1987年 山西人民出版社
「世界の文化史蹟17 中国の古建築」 村田治郎・田中淡 1980年 講談社

※参考ウェブサイト
日本すきま漫遊記の組み物の各部の名称