2012/04/16

ラッブルコア工法の起源はローマン・コンクリート

エルズルムのウチュ・キュンベットのうちエミール・サルトゥクのキュンベット(12世紀末)について、『トルコ・イスラム建築』は、白とピンク色の2色の切石で造られ、多くの修理を受けたが堅固な建物であるという。
9038エルズルム地域の12-14世紀創建の墓廟建築に関する調査報告は、11棟すべてにおいて、建築内外壁表面は整形の切石で構成されている。しかし、フェルッフ・ハートゥーン・キュンベットでは、屋根の崩落部にみられるように、内外の切石の間隙は粗石とモルタルで充填されており、ラブルコアの工法が用いられている。他の10棟を含めたこの地域の墓廟建築は主にラッブルコア工法によって建てられているものと考えられるという。

そうだとすると、アニ遺跡の建物もコンクリート工法によって建てられていたのだ。
実際にアニの建物遺構も、骨材の石がぎっしり詰まっているのが見える。というよりも、骨材の塊に整形切石が貼り付いているようにも見える。
これはローマン・コンクリート以来の伝統的な建造法ということではないだろうか。

『世界美術大全集5古代地中海とローマ』は、ローマ時代のコンクリートは基礎として用いられる場合、木製の仮枠の中で固められたが、地表上に壁として構築する場合、通常、石材や煉瓦によって仮枠を造り、その中にコンクリートを流し込んで凝固させ、石材や煉瓦による仮枠はそのまま残していた。そのため、この外側の壁の造り方には特徴があり、年代的な変化もみられるという。
仮枠を石材やレンガを積んだだけの場合、コンクリートを流し込む時に崩れたり、歪んだりするのではないかと素人の私は思ってしまうが、熟練工は簡単にやってしまえたのだろうか?
それとも、石材やレンガをモルタルでつないで積み上げて枠をつくり、固まったら内部にコンクリートを流し込んだということか。
ポンペイ遺跡でガイドが、板で挟んで、外側の石を並べ、その中に石のかけらなどを入れコンクリートを流し込んで、固まったら板をはずしますと説明した。
この方が積んだ石やレンガが崩れにくいように思う。
古代のコンクリート工法は、鉄筋を用いないだけでなく、コンクリートを型枠に流し込み、固まった壁面にタイルを貼り付けるといった現在の建築とは根本から違っていたのだ。


オプス・レティクラトゥム(網目積み)は、『完全復元ポンペイ』は、ピラミッドの先端を切った形に正確に切断したブロックを斜めの格子状に積み重ねる。ポンペイに導入されたのは前1世紀のなかばからであるという。 同書でこのような石積を、長い間、四角い棒状の石を壁の厚さに揃えて積み上げたものと思っていた。しかし、文を読んで、内部はローマン・コンクリートで固めていることがわかり、是非本物を見たいと思った。
しかし、網目積みを最初に見たのはローマのパラティーノの丘のにあるローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの邸宅またはその妻リウィアの家とされる遺構だった。
リウィアの家の壁面には、色のそろった四角い石が斜め格子に並んでいて、ローマン・コンクリートの壁体に、石のタイルでも貼ったかのようだった。
奥の壁は、このような石がはがれているので、コンクリートに、どのような骨材をどの程度混ぜていたのかを知ることが出来る。

リウィアの家の別の箇所の外壁や、パラティーノの丘の他の遺構には尖った先が出た壁面があった。こんな壁があるのかと思ったが、何度か見ているうちに、これは表面の成レンガが剥がれたものらしいということがわかってきた。
『イラスト資料世界の建築』によると、三角レンガを組み合わせて造ったものらしい。
このような古代のコンクリート工法が何時まで続いたのか、どの地域まで広まったのかわからないでいたが、ムカルナスの起源があるというブハラのサーマーン廟も同じような工法で造られていることを知った。
『シルクロード建築考』は、縦10.8mに横10.7m、壁面の高さ10.05mという立方体に近いこの建築は、一見したところ、外形処理の焼成煉瓦によって構成されている。
一般的にいってこの建築は、煉瓦造とはいえ、構造的にはコンクリート造を主体にした煉瓦積外装の建築である。つまり、外皮化粧をコンクリート打ちの型枠としても利用した煉瓦造の装飾壁面になっているという。
石灰や火山灰と砂や砕石などと混合してコンクリートを考案し、建築の構造に革新的な技術を得たのは、ローマ時代の特色である。以来、殆どの煉瓦積の壁体工法は、石灰モルタルが接合に利用され、壁体の内外煉瓦積の中へコンクリートが搗きこまれて、煉瓦積とコンクリートとの肌別れに対する工法も、各種のアンカー(定着)の工夫も考えられたらしい。
この霊廟のスケール基準は、煉瓦の寸法を単位として構成されたといわれているが、煉瓦造外壁に組み込まれた煉瓦も、長さ24㎝幅12㎝、厚さ3.5㎝の平焼煉瓦であれば、縦横にモルタルで接着して組み込むと、上手に長手の足が壁体のコンクリート内にアンカーすることも出来たのだろうという。
ローマン・コンクリートという技術は、かなり早い時期に広範囲に伝播して、しかも使われ続けたものだったのだ。 廟の内部は、正方形で7.2m四方、壁体の厚さは1.8mと、小さな建物の割に壁が厚い。
では、板で挟んで、外側の石を並べ、その中に石のかけらなどを入れコンクリートを流し込んで、固まったら板をはずすというが、どの程度の高さまで一度に造られていたのだろう。
そのヒントとなるものも、サーマーン廟で見られる。
廟の4面中央にある開口部のタンパンを支える楣は石ではなく木材を渡してあるが、この高さのところで、内部壁面の上下の文様が変わっている。
外壁も同じ高さと思われるの箇所に横の線があるのは、ひょっとして一度に壁体を造るときの高さの限界かなとも思う。
ところが、例えば司教座付聖堂(987-1010年)を見ても、壁体を造る際の繋ぎ目というのが素人目にはわからない。この程度の建物なら板で型枠を造ることができたのだろうか。
それとも、板を用いなくても、切石を外側と内側に建物の高さまで積み上げ、その中に骨材を混ぜたモルタルを一気に流し込むなどということができたのだろうか。
『アルメニア共和国の建築と風土』は、両側に積み上げる石はそこそこの厚みがあるので自立するが、モルタル壁と一体化することで構造的な役割を担うことになるという。
切石は積み上げて自立していたらしい。
『東アナトリアの歴史建築』は、ラッブル・コア工法と呼ばれる、一種のコンクリート工法が用いられている。この工法は、壁面の外装表面として十分整形した石材を配置する一方、壁体の内部にモルタルと骨材を充填することで表層の石材を連結し、壁体として成立させるもので、ローマ建築に由来する工法とみられる。時代や地域に関わりなく、アルメニア建築の殆どがこの工法を用いており、アルメニア建築最大の特徴ともいえるという。
やっぱりローマン・コンクリートの流れを汲むものだったのだ。

ローマ建築には、大きな切石を積み重ねた外壁も古くからある。
「完全復元2000年前の古代都市ポンペイ」は、オプス・クアドラトゥムは、平行六面体に切断したサルノ石や灰色凝灰岩のブロックを少しずつずらして積み重ねてゆく。要塞のほか、住宅のファサードにも使用され、厳粛とした雰囲気をかもしだした。つなぎのモルタルは必要ない。ポンペイで最も古い技法の一つであり、とくにサルノ石は古くから用いられたという。

※参考サイト
9038エルズルム地域の12-14世紀創建の墓廟建築に関する調査報告
9011アナトリア地域の12-14世紀創建の墓廟建築の工法に関する研究

※参考文献
「トルコ・イスラム建築」飯島秀夫 2010年 冨士書房インターナショナル
「世界美術大全集5 古代地中海とローマ」1997年 小学館
「イラスト資料 世界の建築」古宇田實・斎藤茂三郎 1996年 マール社
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」1999年 Newton Press
「東アナトリアの歴史建築 Stone Arks in Oblivion」篠野志郎 2011年 彩流社