2012/04/12

アニ遺跡のキャラバンサライの平天井はラテルネンデッケがヒント

石やレンガ造りの建物はヴォールト(円筒)天井かドームだった。
パラティーノの丘にあるローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの邸宅またはその妻リウィアの家とされる遺構は、外壁オプス・レティクラトゥム(網目積み)と呼ばれる石積みを型枠として、ローマン・コンクリートを流し込んで造られた。コンクリートを用いても鉄骨は入れていないので、やはりヴォールト天井だった。
ローマン・コンクリートについては後日
ヴォールト天井なら全て平屋だったかというと、そんなことはない。下図のように、土などを詰めて平たくして二階建てや三階建ての建物を造ることができた。
下図は現タジキスタン、ペンジケントのソグド商人の家の再現図。
『NHKスペシャル文明の道③海と陸のシルクロード』は、この地域は、建築に適した石材が乏しく、木材も貴重だった。発掘の結果、建造物はすべて日干レンガのブロックや煉瓦で作られていたことが判明したという。
ところが、1031年に石積みを型枠としてコンクリートで造られたキャラバンサライは平天井だった。
キャラバンサライについてはこちら
どのようにこのような広い面積の平天井が架けられたのか不思議だったが、エルズルムの古民家レストランで見上げたラテルネンデッケを見て、その謎が解けたような気がする。

ラテルネンデッケとは、日本では三角隅持ち送り天井と呼ばれているように、正方形の天井の四隅に一段高く三角形の板を載せ、それによって新たにできた小さな正方形の上にも、また四隅に三角形の棚のようなものを上に載せていくという方法で天井を高くしていく。やや粗いが、木製のドームともいえなくもない。
古民家レストランのものは四隅の三角形がやや小さい。
ラテルネンデッケは、現トルクメニスタン、ニサ遺跡の宮殿天井にも使われていたという、古い様式の天井だ。
『アフガニスタン遺跡と秘宝』は、ラテルネンデッケの天井とは、方形の天井の四隅に斜めに梁木を架して、ひとまわり小さい方形の枠を作り、それを積み重ねることによって中心を上に向かって次第に狭めてゆき、最も小さくなった中心頂にドームを載せるのである。方形を直角に交叉させるため、隅に三角形ができることから、「三角隅持送り天井」と呼ばれている。現在、アルメニア、パミール、ヒンドゥクシュの山中やカシュミール地方の木造家屋など、一般の民家でもこの天井がみられる。 
この様式の源流はどこにあるのであろうか。トルクメン共和国、イランとの国境に近いニサにパルティア王国時代の都城址がある。この宮殿の天井にこれがある。紀元前3-2世紀のものである
という。

紀元前3-2世紀には出現し、現在の住居でも一般的に見られるものらしい。
かつて中央アジアで暮らしたこともあるテュルク系の人々にとっては、ラテルネンデッケの天井は今も昔も馴染みのものだっただろう。

キャラバンサライの天井は、そのラテルネンデッケを応用して、天井いっぱいの正方形の四隅に三角形を作った(下写真A)。その三角形Aの長辺でできた内側の正方形はAよりも一段高くなっている。
また、この天井には各角の下の円柱から対角にアーチが渡っていて、中央で交差している。そのアーチはゴシック建築の飛び梁(フライング・バットレス)のように空中に架かるのではなく、天井とアーチの間は壁面になっている。その壁面に補強されながら、ラテルネンデッケの中央の正方形は1/4に分割されている。ただし、見えていない4つめはムカルナスのドームになっている。それについてはこちら
Bは、その小正方形の一つに造られた三角形の持ち送りだ。その内側にできた正方形は一段高くなっているのではなさそうだ。
Aは大きな三角形だが、実際には交差するアーチの上の壁面でAを分割しているので、1つの面積としては小さい。
広い平天井も、このように分割していけば、そして高さを変えれば、小さな木材、あるいは板を渡すことで架けるのが可能ではないだろうか。
そのような工夫で、小さな面なら平天井にする技術を開発したセルジューク朝の建築家は、1071-72年に大モスクを建立するにあたって、部屋を小さく仕切って、複数の部屋の天井の中心部を平天井にすることができたのではないかと思われる(赤く示した箇所が平天井)。
大モスクについてはこちら
アニ遺跡にはセルジューク朝の宮殿も造られた。いったいどんな天井が架けられていたのだろう。
残念ながらグーグルアースで上から眺めると、天井がなかった。

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※参考文献
「アフガニスタン遺跡と秘宝文明の十字路の五千年」(樋口隆康 2003年 NHK出版)
「ヴィジュアル版 世界古代文明誌」ジョン・ヘイウッド 1998年 原書房
「NHKスペシャル 文明の道③ 海と陸のシルクロード」2003年 日本放送出版協会