2010/10/15

東大寺戒壇堂四天王立像に残る截金文様



田上惠美子氏の蜻蛉玉には直線の截金文様があった。
2007年にMIHO MUSEUMで開催された「中国・山東省の仏像展」では、新発見ということで、北斉時代(550-577年)の仏像に截金による装飾が紹介されていた。菩薩像残欠には截金による二重の亀甲文の中に、亀の形に金箔を截り抜いたものが貼り付けてあって驚いた。菩薩立像の方は文様の区画に截金が使われていた。亀以外は直線の截金が使用されていた。 
それよりも早く截金による装飾のあるものは、百済・忠清南道武寧王陵出土の王妃木製頭枕(6世紀前半)で、亀甲文が大きく截金で表されているが、それが現在私が確認できる截金の初現である。大きいながら截金で文様を表している。
中国よりも韓半島の方が先に截金による装飾というものが行われていたのか、より古い遺例が百済の王墓に残っていたのかはわからないが、6世紀には截金の技術が確立され、伝播もされていたことは確かだろう。
截金とはどういうものを言うのか。『日本の美術373 截金と彩色』は、截金は箔を細く截ったものをいう。截箔、裁文は「面」の広がりのある箔をさし、これに対して截金は主に「線」として置かれている場合に使う。また、「截金文様」を「箔を細く截った截金の文様」の意味ばかりでなく、截箔、裁文、截金を単独あるいは組み合わせて表した文様の総称として使用する場合もあるという。


日本では法隆寺金堂の四天王像以降、截金はどのように仏像の荘厳に使われたのだろう。
奈良時代8世紀半ばに近い頃、法隆寺金堂四天王立像の截金からおよそ1世紀を経て素晴らしい截金文様の出現をみる。東大寺戒壇堂の塑造四天王立像のそれであるという。
四天王像としては法隆寺金堂に次ぐ古さの、白鳳期につくられた当麻寺金堂の四天王像(多聞天は鎌倉時代)にも金色が使われた部分があるようだが、金泥による彩色だったのか。当麻寺金堂の四天王像についてはこちら
東大寺戒壇堂に天平の塑像を見ようと思って出かけたのは、もう10年以上も前のことだった。戒壇の四隅で四天王像は戒壇を護って立っていた。暗い堂内では、ところどころに残る彩色の跡はよくわからなかった。まして截金による装飾などは思いもよらなかった。
それら四天王立像の截金文様は、技法の上でもっとも単純な直線文(代わり斜格子、斜格子文、二重格子文)と点綴文(菱形、枡形、星形)とを組み合わせたものである。
4枚の細長い菱形の截箔と小さな菱形の截箔とで、花文のような文様が構成されている。この截金文様がもっと広い面積に表されると、三角の付いた直線とついていない直線とが交差し合って斜格子文になり、斜格子の大きな区画に花文が配されるというように見えるのだろうか。
また、戒壇堂四天王立像の文様で注目されるのは、華麗な錦を思わせるように地模様を截金文様、主文を彩色文様とする組み合わせによる文様表現であるという。
背景の地に赤などの彩色をして截金文様を置き、宝相華のような豪華な繧繝彩色を主模様にしていたということだが、截金は宝相華文の引き立て役に過ぎなかったのだろうか。
こちらは二重格子文の中に細い菱形の截箔8枚で作られた花文が表されているようだが、上図の花文よりも細工が稚拙だ。
興福寺西金堂群像をはじめ東大寺法華堂の諸像、新薬師寺十二神将立像(地文の截金が黄で描かれる)にはみられないところで、なぜこの戒壇堂四天王立像だけに用いられたのかは明らかではないという。
唐招提寺に残る木彫の仏像群が平安前期に繋がる塊量感をが見られ、身につけた衣に翻波式衣文が出現する。それが鑑真和上が来朝した際に連れてきた仏師たちが伝えた唐時代の最新の造像様式だった。それについてはこちら


それならば、四天王立像の截金装飾もまた、鑑真和上が日本へもたらした最新の仏像を荘厳する技法だったのでは。
ところが、『週刊朝日百科国宝の美12東大寺戒壇堂四天王立像』は、東大寺の戒壇院は、わが国に戒律の教えを伝えた唐僧鑑真を招いて、天平勝宝7年(755)に創建された。12世紀の記録によれば、堂は銅造の六重塔があり、戒壇の四隅には銅造の四天王像が安置されていた。しかし、現存する塑造の四天王像は、創建時につくられた金銅像とは別物である。享保16年(1731)に指図堂から移されたものらしいが、本来の安置堂宇は不明であるということで、鑑真和上が直接伝えたものとは言えなくなってしまった。

※参考文献
「中国・山東省の仏像」展図録(2007年 MIHO MUSEUM)

「国宝鑑真和上展図録」(2009年 TBS)
「日本の美術373 截金と彩色」(有賀祥隆 1997年 至文堂)
「週刊朝日百科国宝の美12 東大寺戒壇堂四天王立像」(2009年 朝日新聞出版)