2009/05/12

粒金細工はエトルリア人の発明ではなかった

 
『知の再発見双書37エトルリア文明』(以下エトルリア文明)は、エトルリア人は、紀元前7世紀から紀元前6世紀にかけて、地中海全域でもっとも富み栄えた民族であったと考えられるという。エトルリアの地図はこちら
『同双書35ケルト人』は、ケルトの粒金細工はエトルリア製品と驚くほど似ているという。エトルリアの粒金細工はどのようなものがあるのだろうか。
 
飾り金 金・水晶 高3㎝幅3.5㎝ 前5世紀初頭 ヴィニャネッロ第Ⅶ墓出土 ローマ、ヴィッラ・ジュリア博物館蔵
『エトルリア文明展図録』は、打出しと粒金細工で装飾されており、連続する飾り珠で囲まれた半円形の部分には、台の上に横たわるサテュロスが表されているという。
サテュロスの背後や枠一面に砂のようなものがびっしりと覆っているが、どうも金の粒らしい。作品そのものが小さなものなので、金の粒は極めて小さいと思われる。  河神アケラオスの頭部を表すペンダント 金箔と金粒 前6世紀 ルーブル美術館蔵
『エトルリア』は、エトルリア金銀細工の高い水準を示すものである。
金の「粒」を金粉と言えるほど細かくしたのは、エトルリア人が初めてである
という。
上の飾り金ほどではないにしても、顎鬚部にびっしりと鑞付けされている金の粒はかなり小さい。「金粉」といえるほど細かく作れるようになったのはいつ頃だろうか。
『エトルリア文明展図録』は、粒金細工の中でも特に微少な粒金による微粒金細工pulviscoloはヴェトゥローニアを中心として発達したという。文面から前8-7世紀だろう。 飾り板 金 長3.5㎝ 前7世紀第3四半期 チェルテヴェテリ、バンディタッチャの墓地ドリイの墓アラーリの部屋出土 ローマ、ヴィッラ・ジュリア博物館蔵
『エトルリア文明展図録』は、正面を向いた有翼の女性を表しており、その下半身は吼えるライオンの頭部になっている。装飾は打出しで表され、細部に粒金細工を用いている。南エトルリアの工房作という。
下の翼状のものが左右に広がっているのがライオンのたてがみで、両端に内側を向いたライオンが口を開いている。左右では顎が違っているが、そのように見ていると上の翼の先端も鳥の顔に見えなくもない。
これだけ細かい金の粒を並べながら、打出しで成形した部分の表現が完璧でないのは、東方から将来したモチーフが消化できていない時期のものであることを示している。上-蛭形フィブラ 金 長3.4㎝ 前7世紀第1~2四半期 ヴェトゥローニア、アクァストリーニ円形墓出土 フィレンツェ考古学博物館蔵
蛭形の弓は縦軸に沿って溶接した2枚の黄金製薄片からなり、表面に5個の半球状の飾り鋲が取り付けられている。溶接部の2列の線と外側の縁に沿って細い装飾帯が走っており、この装飾帯を一連の粒金細工の三角形の列が取り巻いている。飾り鋲の周囲ではこれらの三角形は放射状に配列されている。装飾帯の間には粒金細工の連続三角形文が見られる。
本作品は、豪華な粒金細工による装飾によってさらにいっそう見栄えのするものとなっており、その最も近い類品を南部エトルリアの遺例に見出すことができる
という。
前7世紀にすでに金の粒で三角形をつくるということが行われていたのだ。

下-フィブラ 金 長9.4㎝ 前7世紀中頃 ヴェトゥローニア、リポスティリオ・ディ・フィブローニ墓地出土 フィレンツェ考古学博物館蔵
溶接した1枚の薄片からなる蛭形の弓は、粒金細工で植物モチーフと紋章風に向かい合う動物文で装飾されている。
針受けは折りたたんだ細長い四角形をなし、右向きの四足動物が4頭、粒金細工で表されている。針受けの上面は不規則な間隔をおいて並ぶロゼット文で飾られている
という。
東方由来のモチーフをなんとか表現しようとしてしきれていない印象を受ける。金の粒を小さくしたのは、文様を粒金で描くためかも。 頸飾り 金・琥珀 円盤の直径6.1-6.5㎝ 前8世紀第3四半期 ビセンツィオ、オルモ・ベッロの墓地第2墓出土 ローマ、ヴィッラ・ジュリア博物館蔵
小さな琥珀の筒でできており、その間に3枚の金の薄板の円盤が挟まれている。円盤は中央にあるものが一番大きい。円盤はティレニア海域、特にエトルリアで広く普及した幾何学文の打出しでできているという。
粒金細工だとばかり思っていたが打出しだった。このようにエトルリアの粒金細工を見ていると、ケルトの粒金細工でエトルリアのものに似ているというのは、粒で線を描いたもののようだ。しかも、ケルトの数少ない粒金細工よりも、ずっと時代が古い。
いったいエトルリアではいつ頃から粒金細工が行われていたのだろうか。
エトルリアにおいて、わずかではあるが金が初めて出現するのは、紀元前9世紀末であり、小さな金の薄板や細線が、衣服をとめるピンや頸飾りの部品などに使われる。しかし、東方化時代の紀元前8世紀から7世紀にかけて、豊かな首長たちの社会的地位の確立とともに、黄金製装身具は上流階級の間に広く普及した。おそらく小アジアのような遠い産地から交易を通じてもたらされたこの貴重な金属は、延棒もしくは半製品としての薄板のかたちで取引された。この原材料を加工する打出しや、粒金細工、細線細工も近東からもたらされたに違いない。また、シリア・フェニキア起源の装飾法もティレニア海域にもたらされたが、そこには贅沢品に対する旺盛な需要のあるギリシア植民都市と、ラツィオ地方やエトルリアが分布していた。
これらを装飾するモチーフは、初期の段階では幾何学文であったが、東方化様式の文様レパートリーを取り入れて、動物や植物を打出しだけでなく、粒金で表すようにもなった
という。
粒金細工はよく言われるようにエトルリア人の発明であったのではなく、また、スキタイ貴族の要請に応えてつくったギリシア人(『アフガニスタン遺跡と秘宝』より)の発明でもなかったらしい。エトルリアに将来したのはシリア・フェニキアの人たちだったようだ。

※参考文献
「エトルリア文明展図録」(青柳正規監修 1990年 朝日新聞社)
「知の再発見双書37 エトルリア文明」(ジャンポール・テュイリエ著 1994年 創元社)
「知の再発見双書35 ケルト人」(クリスチアーヌ・エリュエール著鶴岡真弓監修 1994年 創元社)
「ラルース 世界歴史地図」(ジョルジュ・デュルビー監修 1991年 株式会社ぎょうせい)
「アフガニスタン遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」(樋口隆康 2003年 NHK出版)