2008/10/17

投入堂は平安時代後期の建物

文殊堂から先は細い凝灰岩の平らな道がついている。やがて凝灰岩がとぎれ、土の道を進んで森の中に入ると、また崖の上に建物の気配がしてくる。やはり清水の舞台と同じく懸造りで、格子に組まれた柱が見えた。 境内図はこちら  こちらはクサリはなく、岩を登り切ると地蔵堂が現れた。 『三徳山とその周辺』 は、正面3間、側面4間の入母屋造り背面軒唐破風つき、こけら葺の建物である。周囲に1間の縁をめぐらすが、断崖にのぞんでいるのに勾欄はつけていない。その斗組みや木鼻の意匠などから室町時代も末期の作であることを思わせる建物という。縁側はあがれるが、登山靴を脱ぐのが面倒なので、ここもパス。 鐘楼を過ぎてまた出現した凝灰岩の道に登る。 鐘楼は、新しそうだったが、切妻造りでこけら葺の構造簡素な和様の鐘楼である。この建物は大正14(1925)年の修理で、大半の部材が取替えられているが、一部に古材も再用されており、旧規をとどめている。枠肘木の曲線や柱の面取りなどに古制がうかがわれ、鎌倉時代の力強さを伝えているという。 それにしても、道幅くらいの凝灰岩の帯がよく続いているものだ。ここが馬ノ背? 牛ノ背を過ぎると岩壁が見え、その下に建物があった。 最初の小さな建物は納経堂。春日造りの一間社。こけら葺で、庇には縁をつけるが階段はなく、極めて簡素な建物である。もとは、鎮守の小社であったものと思われる。年輪年代法による測定で、1082年に伐採された材が使用されていることがわかり、平安時代後期の建造であることが判明したという。続いて観音堂がある。投入堂のように有名ではないが、岩壁の下にあるお堂というのも珍しいのではないだろうか。 三間四方の入母屋造で、両側に千鳥破風をつけた銅板葺(旧こけら葺)の建物で。正側面の三方に縁をめぐらし、正面の縁の一部を懸造りとしている。奥の二間を内陣、表の一間を礼堂とし、内陣中央於くに厨子を置いている。内陣に円柱、礼堂に角柱を用いる手法などは、文殊堂や地蔵堂と通ずるところがあり、平安時代の名残をとどめているが、江戸時代初期のものと考えられ正保5(1648)年に鳥取藩主池田光仲が再興したという寺伝と一致すという。観音堂の裏側、つまり岩窟の中を通って、江戸時代初期という元結掛堂の前に出る。建物群を通り過ぎると、先でぐるりと右に曲がる。 やっと投入堂が見えてきた。思ったよりも小さいなあ。しかし足元が悪いので建物ばかり見ていられない。濡れると滑りやすそうな凝灰岩が、念の入ったことに斜めになっている。 正面1間、背側面2間の流造り、檜皮葺の建物は、両側に庇屋根と隅庇屋根をつけてすこぶる複雑な構造となっているが、着想卓抜な意匠である。向こう側の庇柱の間に挟まれて、軒下に方一間切妻造の小さな祠、愛染堂を作って調和を図っている。このようなところに平安時代の後期の風俗があふれている美しい建物である。年輪年代法により、投入堂・愛染堂の部材が、11世紀末に伐採された材であることがわかり、平安時代後期の建造であることが確定したという。  投入堂の右側には小さな不動堂がある。こけら葺で、春日造の一間社の小さな祠である。庇には縁を設け、勾欄をめぐらしている。一部に古材を残しているが、江戸時代末の建物と考えられているという。

関連項目

参考文献 『鳥取の自然と歴史-4-三徳山とその周辺』 2005年 鳥取県立博物館