新沢千塚古墳群の北側を見学して資料館の裏側まで戻ったら、道なりに県道南群の方に行けそうだった(『海を越えたはるかな交流展図録』の古墳分布図)。県道まで出ると登り口もすぐにあった。


221号墳もマルチングシートで覆われた円墳だったが、南側に回ると石室が見えた。

径13m、高さ3.3mの円墳で、墳丘中央に南に開口する横穴式石室の基底部がのこっていた。右片袖式の石室で、幅1.32m、長さ3.02mの玄室に、幅0.75mの羨道がつき、全長4.42mになる。玄室の床より羨道は15㎝高くつくられ、壁面には厚さ20㎝前後の石を積み上げている。石室内はすでに盗掘されていたということで、副葬品は、須恵器の他は木心鉄板張輪鐙がかろうじて残されていたという。
内部は土や補強材などで覆われていたが、図録の写真では土壁に細い線が何本も入っている。版築の層だろうか。翌日訪れた飛鳥資料館では、高松塚古墳の地層断面が展示してあって、版築の非常に薄い層がとぎれとぎれに重なっていた。版築という土をつき固めて積み上げる技術は日本にあったのだろうか、それとも外来の技術なのだろうか。
トルファンの高昌故城でみた版築は10㎝くらいの水平な層だったし、漢時代に築かれたというクチャのクズルガハ烽火台も同じよに水平な版築の層が重なっていた。それらと比べると、日本の古墳時代は版築に習熟していない時期のように思える。




南群も3つくらいの尾根に分かれていて、さらにその東に鳥屋ミサンザイ古墳という周濠のある前方後円墳もあるので、またいつか歩いてみたいなあ。
※参考文献
「海を越えたはるかな交流-橿原の古墳と渡来人-展図録」(2006年 奈良県立橿原考古学研究所付属博物館・橿原市教育委員会)