2007/10/19

田上恵美子氏のすきとおるいのちと透明ガラス


田上恵美子さんは田上惠美子さんでした。

田上恵美子氏より個展の案内をもらった。 前回もらった銀座の個展は透きとおるいのち ガラス展だったが、今回開かれるのは「すきとおるいのち 蜻蛉玉展」になっていた。 田上氏の創る蜻蛉玉は、英語ではグラスビーズと呼ばれていて、コアグラスという古代ガラスの製法が用いられている。 コアグラスは、『ガラスの考古学』によるとシリア・メソポタミア周辺では、前16世紀後半、エジプトでは、前15世紀前半からというくらい長い歴史を持つ技法である。

透きとおったガラスというのが一般的な現代では、透明でないガラスを見つける方が難しい。しかし、ガラスというものができはじめた頃からずっと透明だったわけではない。 透明ガラスができるようになったのはいつ頃かと調べてみた。

サルゴン二世の壺 イラク、ニムルド北西宮殿出土 8世紀(前721-705年) 高さ8㎝ 大英博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16 西アジア』の解説は、淡緑色の小型の壺は、鋳型で鋳造された後、研削と研磨によって仕上げられている。角張った肩部に両耳を有する形状を呈し、「アッシリアの王、サルゴンの宮殿」という銘文が刻まれている。銘文のほかにサルゴン二世の財産であることを示すライオンの図像も刻まれており、年代を特定することのできる貴重なガラス製の作品であるという。

しかし、『大英博物館 アッシリア大文明展図録』は、この壺は独特のもので、アッシリア、ならびにその近隣地域において、類例は見当たらない。バラグによれば、この容器の型式はエジプトの水晶の壺に似ているので、おそらくフェニキアで作られたものであろうという。銘文は確かにアッシリアのものであるが、後から加えられた可能性も考えられると、見解が分かれている。
両者とも透明ガラスがいつから始まったのか明記されていないのが残念だ。
『ガラスの考古学』 で谷一尚氏は、型を使った鋳造ガラスの技法は、ガラス製作の初期の段階から珠、垂飾などの製作に用いられてきたが、これが容器製作に応用されるようになるのは、前8世紀頃からと考えられている。  ・・略・・  冷却後、型から外して、表面を磨いたり刻んだり、中をくり抜いたりしてできあがる。石製容器をつくるのと同じ技法が用いられている
というが、やはり透明ガラスの起源には触れていない。
この透明ガラスの容器を見たとき、底も器体もかなり厚めに残っていたので、塊状に作ったガラスを割らずに中を削り出すのは大変だっただろうなあと思った。 ビーズ 西アジア 前8-6世紀 最大のビーズは長さ2.6㎝ MIHO MUSEUM蔵 
『MIHO MUSEUM 古代ガラス展図録』は、14面体と6角柱形のビーズはいずれも透明な淡い黄緑色ガラスで作られている。多くは表面が白っぽい風化層で覆われており、その下のガラス面は痘痕のようにでこぼこしている。  ・・略・・  鋳造されたものと思われる。おそらく、西アジアで前8世紀中頃から製作が始まった単色透明の鋳造ガラスと関連のある製品であろうという。

鋳造のガラス容器の開始と透明ガラスの出現を同時期としている。ということは、サルゴンⅡ世(前721-704年)は、この淡緑色とはいえ透明なガラスを手にした限りなく最初の人間ということになるだろう。ひょっとすると、水晶の壺よりも希少価値があったかも。 獅子頭形杯 伝イラン 前5-4世紀前半 高さ17.1㎝ MIHO MUSEUM蔵
同展図録は、淡緑色ガラス。3部分からなる複合鋳型による鋳造法、あるいはロストワックス(失蝋)法。冷却後、カットし、彫刻を施す。  ・・略・・  わずかな銀化と不透明で黄褐色をした皮膜を有するという。 このように古い時代は透明ガラスは鋳造に用いられたようだ。透明ガラスの容器は、前1世紀の第3四半世紀頃(現在では研究が進んで違っているかも知れないが)に発明された吹きガラスによって量産が可能となり、日用品となっていく。

吹きガラスができるようになってからもトンボ玉は作り続けられた。身につける物として需要が続いたのだろう。しかし、透明ガラスを用いたトンボ玉は歴史的には少ない。

田上恵美子氏の蜻蛉玉展は奈良のギャラリーきのわで開かれる。期間が長いので「すきとおるいのち」の数々を見に行きたいなあ。 
※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「大英博物館 アッシリア大文明展-芸術と帝国図録」 1996年 朝日新聞社
「MIHO MUSEUM 古代ガラス展図録」 2001年 MIHO MUSEUM
「ものが語る歴史2 ガラスの考古学」 谷一尚 1999年 堂成社