2017/10/24

敵の死体を踏みつける戦勝図の起源


サーサーン朝の王権神授図や戦勝図には、王の乗る馬の足元に敵が踏みつけられていることが多い。
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また、アケメネス朝では王墓には敵が登場しないため、そのような表現は見られないが、唯一の例かと思われるダリウス1世の戦勝記念碑浮彫にも、敵を踏みつける王が表されているらしいが、目視することはできない。
説明板は、前520-519年、 18X7.8m
王位簒奪者ガウマタと9名の反逆者に対する勝利を表した浮彫の周囲に、古代ペルシア語、エラム語、バビロニア語の碑文がある。両手を上げて降伏を示したガウマタは王の足元に横たわり、捕虜たちは王向かい合っている。アフラマズダのシンボルである有翼日輪は、ダリウス1世に力の輪を授けようとし、王は右手を挙げて恭順を示しているという。
しかし、実際には足場があるため、王の足元は見えない。
現地で買った絵葉書で見ると、両手を上げて降伏したガウマタは・・・足場がなくてもよくわからないかも。
やっとガウマタがわかった。ダリウス1世の後ろに出ているのは、ガウマタの足だった。
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトダリウス一世の碑文と浮彫には、「ダリウス一世に踏みつけられるガウマータ」として、両手を上に上げ、腹部にダリウス1世の左足がのせられた姿で描写されている。

『世界美術大全集東洋編16』は、このような形式はメソポタミアのアッカド王朝のナラム・シーン王の戦勝図やイラン北西部サリ・ポール・ズハッブのアヌバニニ王の戦勝図(前23世紀)などに由来する。ダリウス1世の右上にはゾロアスター教の主神アフラ・マズダーが表され、正当かつ正統な王位を象徴する環を同王に授与しようとしている(王権神授)。これもメソポタミア美術の王権神授図に伝統的な「環と棒」に由来するという。
同書にはサリ・ポール・ズハッブのアヌバニニ王の戦勝図は図版がないが、幸い、大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトサレ・ポレ・ゾハーブで詳しく知ることができた。
同サイトは、ケルマーンシャー市から西へ100㎞ばかり行くと、サレ・ポレ・ゾハーブという町に着く。イラク国境から20㎞の地点に位置している。 その市内に5つの浮彫があり、町に入る手前にアケメネス朝期とサーサーン朝期の遺跡がある。市内に5つある浮彫のうち4つは紀元前三千年紀後半から二千年紀前半にかけてのものとされ、イランではもっとも古い浮彫である。
古代のエクバタナからビーセトゥーンの山麓を通ってバビロンに通じる「アジアの道」に面している。ビーセトゥーンからは150㎞ほど西にあたる。町を流れる小さい川の手前の右側、小学校の裏庭にこの浮彫が位置している。同じ崖の下にはパルティア時代の浮彫が刻まれている。付属するアッカド語碑文によれば、ルッルビ国のアヌバニニ王が戦勝を記念して破った敵将を引き具してイシュタル女神の前に立っている図である。下部にはアッカド語の碑文が刻まれている。描かれた時代は紀元前三千年紀後半とも二千年紀前半ともいわれている。とりわけ、ビーセトゥーン浮彫のモデルと考えられているが、確証はない
という。

その図はイシュタル女神と向かい合うアヌバニニ王の足元に、敵がしっかり踏みつけられている。
サレ・ポレ・ゾハーブ(Sarpol Zahab)は、イラク、キルクークの南東170㎞辺りの町。

そして、ナラム・シーンの戦勝記念碑 アッカド王朝時代、前23世紀 高約2幅1.2m 赤色砂岩 スーサ出土 ルーヴル美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、この戦勝記念碑はスーサから発見された。碑面には2種類の銘文が刻み込まれている。碑面上方の中央部付近にはかなり欠損してはいるもののアッカド王朝時代の銘が残っており、この記念碑がサルゴン1世の孫にあたるナラム・シーン(前2254-2218頃)がザグロス山中に住むルルビ族に勝利を収めたことを記念して作られたことを物語っている。その右手、山をかたどった上に刻み込まれているのは、前12世紀のエラム王シュトルク・ナッフンテのもので、彼がバビロニアに侵入した際、他の多くの戦利品とともにこの碑をシッパルの町から奪ってきたことを記している。これまでの浮彫りに見られた碑面を水平方向に何段にも仕切る線は姿を消し、斜め上方に向かう動きが、構図のなかに見事に組み込まれている。碑面頂部には神々のシンボルである天体が現れているが、そこに向かって全体が集約し、ダイナミックで堂々とした作品に仕上げられている。
この作品もまた、スーサに運ばれたナッフンテ王の略奪品だった。王は足下に敵兵の屍を踏み付けながら、誇らしげに武器を携えて軍の先頭を切って進んでいる。その姿は堂々としており、しかも写実的に表現されている。肩の部分は正面から見た格好をそのまま写しているが、その他の身体の各部分の描写には、側面または斜め前方から見た格好を取り入れている。目を側面から描出した浮彫りは、知られている限りではこの作品が最古であるという。
スーサに運ばれた略奪品についてはこちら
同書は、ナラム・シーンの姿は碑面中央にねひときわ大きく表されている。彼がかぶっている兜についた角飾りは一般には神のみがつけるものであるため、ここでは王に一種の神性を付与することとなったという。
敵兵の2名の遺体は、地面に横たわるのではなく、頭部と胴体がX字形に交差して宙に浮いてしいて、王の左足を置くためのもののようで、これもまた、王の神性の現れの表現とも思える。

アッカド王朝時代の浮彫り断片 前23世紀 イラク、ラガッシュ(テッロー)出土 石灰岩 ルーヴル美術館蔵
同書は、王の名前は欠損してはいるものの、サルゴン1世の後継者であるリムシュ(在位前2278-70頃)ではないかと思われている。碑には表裏両面にわたって戦闘の場面が繰り広げられている。人物の動きはさらに多様化し、動作は軽快で、人体表現に写実的傾向が強まってきているという。
ここでは箙を背負い、矢を引く人物が王ではなさそうだが、その下元に敵兵が倒れている。

エアンナトゥムの戦勝記念碑(禿鷲の碑)部分 初期王朝時代3期、前2500年頃 イラク、ラガッシュ出土 石灰岩 ルーヴル美術館蔵
同書は、ラガッシュの君主であったエアンナトゥムの戦勝を記念する浮彫りと、彼の事蹟を物語る碑文とが、表裏両面にわたって刻み付けられているこの大型の石碑は、一名「禿鷲の碑」とも呼ばれているという。
同書は、エアンナトゥムは兜をかぶり毛皮を身に着け、右手に武器を持って立ち、その後方には武装した歩兵の集団が続いている。兵士たちは一様に兜をかぶり盾と槍で身を固めているが、それぞれの頭、足、盾や槍を持つ手を引き出し、観念的に組み合わせた表現がなされている点が注目される。
歩兵の足下には蹴散らされている敵兵の姿が見られるという。
ひじょうに断片的だが、積み上げられた兵士の屍が埋葬されようとする場面と思われる。君主がこの場面にも登場していることが、わずかに残っている足先から判明するという。
王自身の足下にも敵兵の遺骸が2体横たわっている。

このように、王が直接敵を踏み付けているのではないが、兵士が踏み付けたり、王の足下に敵の屍が横たわっていたりする戦勝記念碑というのは、メソポタミアでは古くからみられるものだが、王自身が敵の遺体を踏むというのは、アケメネス朝のダリウス1世の戦勝記念図が最初かも。
そして、それがサーサーン朝の戦勝図へと受け継がれていったのだった。

関連項目
サーサーン朝の王たちの浮彫
スーサの出土品2 エラム時代の略奪品

※参考サイト
大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクトダリウス一世の碑文と浮彫サレ・ポレ・ゾハーブ

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館