2017/07/25

アケメネス朝の美術は古代西アジア美術の集大成


『古代イラン世界』は、アケメネス朝の美術は、古代西アジア美術を集大成したもので、これ以上発展する余地がないとまでいわれている。事実、ペルセポリスの浮彫の図像を調べていけば、多くの図像がそれ以前の西アジア、エジプトの美術などにたどりつけるという。
それを手持ちの書籍の図版の範囲で見ていくと、

『古代イラン世界2』は、「怪獣と英雄ないし帝王の闘争図」は帝王のような人物は短剣で怪獣と闘っている。その冠がアケメネス朝の帝王のいずれのものとも決定しがたいので、このような帝王風の人物は祖先を英雄化したものであるといわれている。
むしろ、神に等しいと考えられた帝王を、個人レベルではなく、万世一系の帝王という観念のレベルでそのように描写したと考えたほうが妥当である。すなわち、怪獣と闘う帝王は「アケメネス朝による平和」を乱す「悪全般」を退治する善なる王権を象徴しているのであるという。
百柱の間東壁北扉口に牡牛と闘う国王の浮彫がある。
アルタクセルクセス1世が飛び掛かる牡牛の角を掴み、短剣で腹を刺している。建物の外側に王がいる。牡牛ではなく周りから攻め込んでくる敵や天変地異など全ての象徴のようなものだったならば、扉口の外側に怪獣を表した方が、宮殿に侵入するのを王が防いでいるという風に思えたのに。
同書は、このような観念はメソポタミアにおける「国王の獅子狩り」に匹敵するという。
この機会にアッシリアの浮彫もちょっとのぞいてみよう。

『アッシリア大文明展図録』は、古代メソポタミアにおいて、ライオン狩りは特別な意義を持っていた。早くも紀元前3000年以前から、王がライオンを狩る場面が描かれている。ライオンは野生の力を象徴し、王の任務はそれを自らの支配下に置くことであった。そしてある時から、ライオンを狩るのは王のみに認められた特権となったように考えられるという。


国王のライオン狩り アッシュール・バニパル王期(前645-640年頃) 縦159.0-160.0横264.0㎝ ニネヴェ北宮殿出土 大英博物館蔵
同展図録は、王は伝統的な国王のスポーツであるライオン狩りをたしなんだ。王の獲物となるライオンは、捕獲したり、飼育した後に、王の狩猟の獲物となった。この浮き彫りには、そのような主題が描かれている。
画面最上段には、一連の出来事が順を追って描かれている。画面の右手では、護身用の小さな檻の中から手を延ばしてライオンの入った檻の扉を持ち上げている。檻から出たライオンは、画面の左方向へと進んだところで、王の放った矢を受ける。ライオンは死なずに、盾持ちの男に守られて矢を射続けている王めがけて飛びかかる。この画面のさらに左手に描かれていた最終場面では、アッシリアの王の印章の構図と同じように王とライオンが一対一で対決し、王がライオンを剣で刺し殺している情景が描かれていたという。
同展図録は、騎手が、それほど興味を示してもいないようにも見えるライオンに手を出している。左手から王が現れて、ライオンの尾をつかんでいる。この画面では見えないが、王は右手に棍棒を持ち、ライオンの頭部を殴ろうとしていることは、浮き彫りに伴う説明文にも記述されているという。
王はライオンの尾を掴み、棍棒で殴ろうとしているが、向かい合ってはいない。
国王のライオン狩り アッシュールナツィルパル2世期(前875-860年頃) ニムルド北西宮殿西翼出土 縦98.0横139.5厚23.0㎝ 大英博物館蔵
同展図録は、アッシリア美術においては、勝者の戦車を引く馬の下に、倒れた敵ないしは犠牲者を描くのは常套手段である。この画面に描かれたライオンは身体に3本の矢を受けている。この画面は完結した構図ではなく、画面の右手には、別のライオンが描かれていたと推測されるという。
国王の雄牛狩り アッシュールナツィルパル2世期(前875-860年頃) ニムルド北西宮殿B室出土 石製板20上部 縦93.0横225.0厚9.0㎝ 大英博物館蔵
同展図録は、王の戦車は倒れた雄牛の上を画面右に向けて疾走してゆく。戦車上から雄牛を狩る人物がアッシュールナシルパルⅡ世その人であることは、彼の被っている特徴ある王冠から確認できる。この画面では、王は前方を向いて矢を射るかわりに、後方を向いて、背後から襲いかかってきた雄牛を狩っている。王は雄牛の角をつかみ、首に剣を突き刺している。
この浮き彫りは、玉座の近くの壁画を飾っていた作品の上半部である。おそらく王が特別に誇りに思っていた功績を表現したものと考えられるという。
王は牡牛の角を掴み、その首に短剣を刺しているが、互いに向かい合ってはいない。
「王の印章」の印影 サルゴン2世期(前715年) 粘土 径3.8厚2.0㎝ ニネヴェ出土 大英博物館蔵 
同展図録は、このスタンプ印章の印影には、背後に房飾りが垂れ下がる王冠を戴き、キルトを身に着けた有髭のアッシリアの王の姿が描かれている。王は右向きに立ち、後脚で立ち上がったライオンのたてがみを左手でつかんで、その胸部を剣で突き刺している。ライオンは一方の前脚を頭の後ろに振り上げ、他方を身体の正面に下げた、独特の姿勢で描かれている。画面の周囲には ここも
この印影は、木製の箱の周囲にかけた紐の結び目に円盤状の粘土塊を置き、その上に押印されたものである。
衣装の細部や、王とライオンの大きさの比率、印章のサイズや縁飾りに使われる装飾文などにおいて多くのバリエーションが存在するが、この種の印章は3世紀間にわたって、アッシリアの王宮の経理実務や行政に関わる用途に使用され、「王の印章」として知られている。この種のスタンプ印章の実物はこれまで出土していないという。
これこそペルセポリスの扉口側壁の浮彫の元になったものではないかと思われるほどよく似た構図である。違いといえば、ライオンが牡牛に、たてがみではなく角を掴み、胸ではなく腹部を刺していることくらいだ。

『古代イラン世界』は、万国の門の出入り口に守護聖獣として有翼牡牛を一対ずつ配置するデザインもアッシリア帝国の宮殿出入り口に既に見られるという。
それについてはすでに記事にした。こちら
そこで今回はそのラマッスをどのように運んだかを表した浮彫の模写を、

人面有翼牡牛像を運ぶ浮彫の模写に基づく銅版画 原本はセンナケリブ王期(前704-681年)
『アッシリア大文明展図録』は、アッシリアの彫刻作品の中で、見る者を最も威圧するのは、高さ5mにも及ぶ人面有翼雄牛像や人面有翼ライオン像などの巨大な守護像であろう。このような像は、通常、30tもの重さの岩塊から造られており、像を移動の様子はセンナケリブの宮殿から出土した浮き彫りに描かれていが、何百人もの男たちが力をあわせて荷ぞりに載せた巨像を引きずって動かしたという。 
岩塊に肢などを少し浮彫しただけで、頭部は切り出したままのものを運び、安置場所で細かく浮彫したのだろう。

『古代イラン世界』は、朝貢図はアッシリア帝国の美術にならったものであるという。
アパダーナ東階段には23ヶ国から朝貢してきた使節団が、それぞれに特産品や動物を伴って行進する様子が3段にわたって現されていた。
黒いオベリスク 前858-824年 黒色石灰岩 高202幅60㎝ 大英博物館蔵
『世界美術大全集東洋編16』は、シャルマネセル3世の晩年に制作された記念碑。石碑は四角柱で、そり頂部は3段の階段状になり、ジッグラトと呼ばれる神殿塔の形状を模している。
各段4面が一続きの主題を表現し、その内容は各パネル上部に銘文として刻まれている。
最上段のパネルにはイラン北西部に位置するギルザヌ国の王スアが、弓と矢を手にしたシャルマネセル3世の前にひれ伏す場面が描かれ、それに続くパネルに貢物(略)を運ぶ死者たちの行列が表現されている。
2段目のパネルには、イスラエル王オムリの息子であるイエフ王が、杯を手にしたシャルマネセル3世の前にひれ伏す場面が描かれ、それに続くパネルに貢物(略)を運ぶ死者たちの行列が表現されている。
3段目のパネルには、ムスリ国(おそらくエジプト)からの朝貢品として、二瘤駱駝、カバ、犀、アンテロープ、象、猿などの珍しい動物が運ばれてくる情景が描かれる。
4段目には、ライオンが鹿を襲う場面に続いて、スフ国(ユーフラテス河中流域)からの貢物として「銀、金、金製水差し、象牙、投げ槍、亜麻布」を運ぶ使者の行列が描かれる。
最下段には、ハッティ国からの使者が朝貢品を運ぶ情景が描かれている。このように各国からの朝貢を描くことによって、シャルマネセル3世の治世にアッシリアが影響を及ぼした広範な領域を示そうとする意図が読み取れるという。
たしかにアパダーナに繋がる朝貢図がアッシリアにあった。

『古代イラン世界』は、アパダーナの36本の巨大な石柱の柱頭を「2頭の牡牛の背合わせ像」で飾るデザインは、ルリスターンなどの山岳地帯の動物意匠に由来しようという。
あっと驚く指摘だった。以前からルリスタン青銅器、特に轡の動物表現には興味を持っていたが、それが双頭の牡牛形柱頭と結び付くとは思わなかった。

有翼人面獣身くつわ 前1千年紀前半 青銅 長12.7㎝ ルリスタン出土 岡山市立オリエント美術館蔵
ルリスタン青銅器といえばこのような動物などを象られた轡。口の左右にある鏡板から双頭の牡牛を創造したのだろうか。
馬形くつわ鏡板 前1千年紀前半 青銅 長9.9㎝ ルリスタン出土 岡山市立オリエント美術館蔵
ここで現された動物は馬だが、確かに双頭になっている。動物の前軀を左右に繋いだ造形は確かにルリスタン青銅器にあった。

『古代イラン世界』は、有翼円盤のアフラ・マズダ神の図像および、その左手に持つ環(正当な王位の象徴、クワルナフ)もアッシリアのアッシュール神像(淵源はエジプト)に由来するという。
円盤の中に姿を現した神は環を持っているのかどうか・・・
別の浮彫では左手で環を持っているが、日輪の背後に上半身を現す。
『世界美術大全集東洋編16』は、この浮彫りは、ニムルド北西宮殿の「玉座の間」から出土した。かつては玉座の間の真後ろに設置されて、王が玉座についた際に。その背景をなしていたきわめて重要な作品である。画面中央には「聖樹」が描かれ、その上方には有翼日輪の中にアッシュル神が表されている。アッシュル神は画面の右側を向き、アツシュルナツィルパル2世の表敬に応えるかのごとく、両手を肘から曲げて掲げている。
聖樹を挟んでその両側に繰り返される王の姿は、聖樹の幹を中心軸として180度回転した「面対称」の原理に基づいて表現されている。「線」を対称軸とする通常の「鏡像(ミラー・イメージ)」とは異なるという。
この浮彫を見ると、どちらが王か迷ってしまう。次に、どちらも王で、左右ともに右手を人差し指で有翼日輪を指して礼拝しているのだと気付く。
そして有翼日輪の中から神が上半身を現し、左手で環を持っている。
ラメセス3世葬祭殿第2中庭柱廊天井 新王国第20王朝、前1160年頃
『世界美術大全集2エジプト美術』は、第20王朝2代目のラメセス3世は、第19王朝の大王ラメセス2世にあやかり自らの名をラメセスとした王。
禿鷲の翼をもつ有翼日輪が刻されている。
有翼日輪のさらに奥の天井が高くなった部分には、両翼を広げたネクベト(禿鷲の女神)の図像が並んで描かれている。翼を広げたネクベトの図像は、新王国時代に好んで描かれたものであり、王宮や神殿、王墓の通路などの天井などを飾っているという。
ラメセス2世が造立したアブシンベル大神殿にもネクベトの図像が並んでいるが、有翼日輪はないので、エジプトにおいて有翼日輪は、この頃に完成した文様ではないだろうか。
しかし、アビドスのセティ1世葬祭殿の壁に有翼日輪の浮彫があった。セティ1世は第19王朝第2代の王(前13世紀前半)で、この葬祭殿には美しい浅浮彫の装飾を残している。その完成は息子のラメセス2世期だが、両者の浮彫の違いは歴然としているので、この浮彫はセティ1世期のものであることは確かだ。
そして、もう少し古い有翼日輪は、第18王朝末期の王ツタンカーメン(前14世紀後半)の副葬品にあった。

厨子型カノプス櫃 前14世紀後半 アラバスター 高85.5幅54㎝ カイロ、エジプト考古博物館蔵
黄金の椅子 木・金箔 高104幅53奥行64.5㎝ エジプト考古博物館蔵
ツタンカーメンと妻アンクエスエンアメンの上方から太陽の光が人間の手となって降り注いでいる。これは、父アクエンアテンが太陽神アテンを信仰した名残で、アテンは先端が手の形をした複数の光線をもつ太陽円盤として表された(『図説古代エジプト1』より)。
その太陽円盤が、ネクベトと結びついて有翼日輪となったのが、ツタンカーメンの時代だったのだろう。

広大な版図を手中にしたアケメネス朝の王たちは、それぞれの地で育まれた美術を受容し、更に消化して自分たちの美術を創っていったのだった。

ペルセポリス 百柱の間扉口側壁浮彫
           →パサルガダエもナクシェ・ロスタムも拝火神殿ではなかった

関連項目
アパダーナの階段中央パネル
アパダーナ東階段の各国使節団
使節団の献上品
百柱の間扉口側壁浮彫
ペルシア風ラマッス
柱頭彫刻
銀製皿に動物を狩る王の図

※参考文献
「季刊文化遺産8 古代イラン世界」 1999年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「大英博物館 アッシリア大文明展-芸術と帝国-図録」 1996年 朝日新聞社
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」 2000年 小学館
「古代イラン秘宝展-山岳に華開いた金属文化-展図録」 2002年 岡山市立オリエント美術館
「世界美術大全集2 エジプト美術」 小学館 1994年
「図説古代エジプト1 ピラミッドとツタンカーメンの遺宝篇」 仁田三夫 1998年 河出書房新社