2015/01/06

般若寺1 楼門



かなり以前に般若寺に行った時、お寺がどこにあるのかよくわからず、狭い道を迷った記憶があるが、今回はナビのお陰で、すんなりと辿り着くことができた。お寺の駐車場は、楼門の北側の通路を入ったところにある。
駐車場に車を置いて、先ほど見かけた門に行くと、ここからは入れなかった。「拝観はこちらから」という札の意味を、無駄足を踏んだ後ようやく理解できた。

楼門 鎌倉時代、文永4年(1267頃)
般若寺のリーフレットは、鎌倉時代、、叡尊上人らによる文永の伽藍復興の際、文殊金堂と十三重塔を囲む廻廊の西門として建てられ、かつての境内の真中を貫く京街道に面して立っています。
楼門づくりという意味の「楼門」建築では日本最古の遺構です。はばたく鳥のつばさのような軽やかな屋根のそりをもち、小さいながらも均整のとれた姿は「最も美しい楼門」とたたえられていますという。
説明板の立面図
楼門は一間一戸(正面の柱間一つに戸口一つ、実尺は4.85に2.84m)の小規模なものであるが、上、下の均斉もよく取れていて、遠く離れて見ても美しい姿である。楼門、すなわち二階二重門で、一、二階の境は縁だけで屋根は二階だけの型式の門である。
二階は一般の楼門に多い三間二間である。両側面は壁で、正面は中の間板扉に両脇は繊細な鎌倉式の連子窓で一般の扱いと同じであるという。
同平面図
平面も一般の門と違って一階(下層)は一間二間(奥行は扉筋の柱で前後に分かれているので二間)。しかも本柱(扉筋にある柱)は円柱だが、前後にある控柱は方柱で、鎌倉時代一流の大きい面(稜を削り落とすこと)が取ってあるので、小規模の門に相応しく軽快な感じであるという。
四脚門でもある。
全体に伝統の和様形式で、蟇股(かえるまた)や屋根を支える木組の肘木などに新しく伝来した「大仏様」(だいぶつよう、天竺様とも)が折衷され、二階の扉や欄干などにも軽快で繊細な感覚がみられますという。
二階の般若寺と書かれた扁額の両側に、やや装飾的な肘木が見られる。また、開口部の長押の上と、回廊下に、面白い形の蟇股がある。
説明板は、下層では前後一間ながら柱頭を繋ぐ頭貫上には中間に斗を2つ置いて3つに分け、その間に板蟇股3個を並べて柱間三間の意をあらわしている。この蟇股は両妻と中央扉筋にもあるが、扉筋のは少し形が違っているという。 
板蟇股というのか。

境内側から
扉上の蟇股の形が、表側と異なっているようには見えなかった。
屋根は遠くからしか見えない(先が切れてしまった)。
説明板は、上層は三間とも扉としてあるのは特異であるという。
反対側には十三重塔。この塔については次回。

さて、拝観の順番からいうと、目立たない入口を入ると、本堂がある。
本堂の左右には石仏が並んでいて、元禄(1688-1704)のものという(同寺リーフレットより)。

南西側
 東側

本堂の西側には鐘楼があり、その南に五輪塔が2つ安置されていた。小さい方は欠けている。
その裏側
上から空・風・火・水・地の5つの部分は、大きな五輪塔のように一つ一つを形作って載せるのが一般的だが、中にはこのように一つの石から彫りだしたものがあり、一石五輪塔と呼ばれている。
以前に臼杵で見つけて興味を持ったが、久しぶりに見かけた。臼杵で見た日吉神社の一石五輪塔は「風」が大きく、説明板には、平安末期から鎌倉初期と記されていたが、『日本の美術77塔』は、古くは平安末期のころからある。その名高い例は九州大分県臼杵の石仏群の傍にある嘉応2年(1170)在銘と承安2年(1172)在銘の2基の五輪塔で、前者は高さ60㎝、後者は105㎝で共に各輪にキャ・カ・ラ・バ・アの梵字を陰刻してあるという。
これは1mにも満たない小さな一石五輪塔で、時代もわからなかったが、他にもあったような気がする。

本堂東側にも石造の塔がある。

笠塔婆 鎌倉時代、弘長元年(1261) 2基 花崗岩 南塔総高4.46m北塔総高4.76m
同寺説明板は、笠塔婆形式の石塔では日本最古の作例。また刻まれた梵字漢字は鎌倉時代独特な雄渾な「薬研彫り」の代表例とされる。弘長元年7月、宋人石工伊行吉が父、伊行末の一周忌に当たり、その追善と現存の悲母の供養のた為に建立したという。
宋の人が造っただけあって、五輪塔とは頂部が異なっている。

般若寺はコスモスの寺として知られているが、花はもう終わりに近く、人は疎らだった。そのため、ゆっくりと見て回れたのだが、最後に見つけたのはカラスウリの実だった。
 中にはこんな縞のあるものも。

                                 →般若寺2 十三重塔



※参考文献
般若寺のリーフレット
「日本の美術77 塔」 石田茂作編 1972年 至文堂