2014/10/28

中国の山の表現3 唐代



隋代に山水画は発展した。それが唐代にはどのように変化していくのだろう。

法華経変部分 初唐(618-712) 敦煌莫高窟第217窟南壁
『敦煌莫高窟3』は、図中に重畳する山を描き、緑なす樹木が生え出で、河も山々の間を蛇行しながら流れている。人物が活動している場面を描いている。山水人物画の出色の一幅であるという。
今は変色して茶色くなった細い川が、ジグザグに表されている。
敦煌では、隋代に請来された新たな山水図はそのまま継承されるが、あまり発展しなかったようだ。

江帆楼閣図軸 唐(7-8世紀) 絹本着色 101.9X54.7㎝ 伝李思訓筆 台北国立故宮博物院蔵
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、隋の展子虔から初唐の李思訓(653-718)、李昭道父子に受け継がれ、いわゆる六朝以来の細密で情趣的な彩色を伴う、青緑山水の系譜がある。江南の広々とした平遠の景を鳥瞰構図で描き、画面下にあたる手前が近く大きく、上は遠くて小さい。そのあいだに景物を積み重ねて自然な連続をなして画面が満たされる。しかしこの平遠に加え、高遠、深遠といった、いわゆる三遠法ができてくる。「江帆楼閣図軸」には巧みに三遠法を取り入れた構図が成立しているという。
青緑山水は、上図のように敦煌莫高窟にも伝わっているが、本場の山水画とは緑色の使う箇所がかなり異なってることが、このような絵画と比べるとよくわかる。  

同書は、唐代は山水画が独立した画題としてのみならず、遠近の構図や写実描写に至る山水画の様式が完成した時代でもあるという。

宮城闕楼図 唐・神龍2年(706) 陝西省乾県乾陵陪葬墓、懿徳太子墓墓道北壁出土 西安市陝西歴史博物館蔵
『世界美術大全集東洋編4』は、壁画の主題には多彩な内容が含まれるが、もっとも普遍的にみられるのは、人物、天象、四神、建築、儀仗、山水、花卉、花文などである。
建築を題材とした壁画としては、懿徳太子墓の墓道東西両壁に、墓道を城門前面の通路に見立てて、宮城門から前方に張り出した闕を、両側壁面に左右対称に描くことにより、  ・・略・・ 
しかも城壁の塼積み基壇、斗栱(柱上の組物)、扉・窓、高欄、屋根などの建築細部に至るまで微細な描写がなされているという。
建物は下から見上げたように、組物がよく見えるような描き方をしている。法隆寺金堂のものに近いかな。
その背景には樹木も水の流れもない山岳風景。当時すでに長安から望める遠景は、黄土層の崩れた、荒涼とした大地だったのだろう。

楓蘇芳染螺鈿槽琵琶 捍撥部分 奈良時代(8世紀) 正倉院南倉
『第56回正倉院展目録』は、捍撥には皮を張り白色下地に彩絵を施した上にその保護のために油を引く。密陀絵の一種である。縦約40㎝、横約16㎝の小さい画面に、縦方向に近景から遠景まで懸崖、渓谷、遠山を配して奥行きのある図様を作り、盛唐期山水画の「咫尺千里」を彷彿させる。墨や彩色による陰影法、暈繝彩色の青-赤、緑-紫を対比させる配置などは唐朝8世紀に入ってからの新しい技法とみられ、図は盛唐期の画風を伝えるきわめて貴重な作品である。
なお白色顔料の一部からは、純正鉛白ではなく塩化物系化合物が検出され、本図をわが国における製作とみる有力な根拠とされる
という。

正倉院宝物の9割くらいが日本で制作されたものであることが、成分分析によって解明されたが、唐から、あるいはシルクロードの製品が唐を通して請来されたものであった方が有り難みがあるのか、請来された品物を手本として、当時の日本でここまで制作することができたことを喜ぶのか、微妙なところである。
そしてもう一点。

黒柿蘇芳染金銀山水絵箱 奈良時代(8世紀) 正倉院宝物
『世界美術大全集東洋編4隋・唐』は、蓋表に描かれた山岳には金泥で濃淡をつけ暈取りをし、立体感ある山襞を表現している。それまでに見られなかった新しい山岳表現の手法がみられ、その出来栄えとともに盛唐山水画を彷彿させるという。
各辺を下にしてそれぞれの面から見た山水図を描くという面白い趣向となっている。
飛ぶ鳥や雲は旧来の図案化された描き方だが、山岳表現は新来のものを採り入れている。
『第61回正倉院展目録』は、暈(くま)を生かした山岳の描写は、唐代に発展した山水画の技法のわが国でのいち早い受容例と考えられ、遺例の少ない唐代絵画史の空隙を埋めるものとしても注目されるという。

法華経変化城喩品部分 盛唐(712-781) 敦煌莫高窟第103窟南壁西側
経変の各場面を描いているので、人物の大きさは同じである。しかし、山岳は、場面の区切りや背景などに使われていて、低山から高山までが描き分けられている。
盛唐ともなると、また新たな画風が都から伝わってきたのだろう。

山水図屏風様壁画 唐(8-9世紀) 漆喰墨画着色 陝西省渭南市富平県呂村 富平唐墓墓室西壁
『世界美術大全集東洋編5』は、基本的に筆鋒を上から下へと垂下する線皴を重ねて山容を画き出す。荊浩の門弟の関仝の伝承のある[秋山晩翠図]にもつながる。また、中国山水画の基本構図の一つとなる一水両岸構図を採り、向かって右に此岸、間に水面、左に彼岸を配して、此岸に大樹、彼岸に主山を置く点で、同時期の曲陽五代王処直墓前室北壁「山水図壁画」に通じるという。
墓室壁面に六曲屏風に見立て、細長い区画にそれぞれ別の絵を描くということは唐代には広く行われていて、現トルファン郊外にある高昌国の墓地だったアスターナ古墓群で見学した墓では、故郷の杭州の風景画があった。
この図は着色されているということだが、ほとんど水墨画に近い。右図は縦の線が、山水図は斜めの線が強調されている。
正倉院宝物の楓蘇芳染螺鈿槽琵琶の岩の表現を、厳しくしたような描き方となっている。
「秋山晩翠図」と王処直墓室の「山水図壁画」についてはこちら

彌勒経変部分 中唐(766-835) 安西楡林窟第25窟北壁
唐は中央アジアまで広げていた領土を失い、関所を敦煌西郊の玉門関から、東方の安西に移した。当時の安西の町の南郊にある楡林窟では石窟の開鑿が盛んだった。
楡林窟についてはこちら
中唐時代は敦煌では吐蕃(チベット族)に占領されていた時期で、唐自体が低迷していた。
そのためか、岩峰も崖もギザギザした描き方になってしまった。それでも遠景に三角形ながら山々を表すということはしている。
弥勒経変図左側上部は山水図になっているが、その下方には、様々な生活風景が描写されている。その一番下には、生きながらにして墓室に籠もり、静かに臨終を迎えようとする老人と、家族の別れの場面が描かれている。
墓室内で臨終を迎えようとしている老人の背後には、山水図と屏風の枠のようなものが描かれている。山水図といっても、山はギザギザに描かれているだけではあるが。
老人は漢族のようだが、漢族は敦煌でも伝統的に地下に墓が造営されるのではなかったかな。
それについてはこちら
このようなドーム状の墓は借りの墓で、亡くなると地下に埋葬されたのかも。
北壁いっぱいに描かれた弥勒経変図の右端の下の方にある図。水墨画ではなく、青緑山水図である。
屏風にしては隙間の間隔が広すぎるので、掛け軸を何幅か吊り下げたか、それぞれが独立した小さな屏風で、それを部屋に巡らせているのではないだろうか。そんな部屋で、漢族の主人とモンゴル族の母が、母と同じようにモンゴル族の衣装を着けた娘と、別の民族の青年との婚礼を執り行っている。

晩唐期のものは見付けることができなかった。

   中国の山の表現2 三国時代から隋代← →中国の山の表現4 五代から北宋

関連項目
第66回正倉院展2 奈良時代の経巻に山岳図
平成知新館5 南宋時代の水墨画
中国の山の表現1 漢時代山岳文様は博山蓋に
中国の山の表現5 西夏

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌文物研究所 1987年 敦煌文物研究所
(中国語がわからないので、字面で意訳しています。間違っているかも分かりません)
「世界美術大全集東洋編4 隋・唐」 1997年 小学館
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館
「第56回正倉院展図録」 2004年 奈良国立博物館
「第61回正倉院展目録」 2009年 奈良国立博物館