2014/09/26

天井の蓮華



蓮華座について調べていると、驚くような蓮華が天井に描かれていた。しかも、それは法隆寺五重塔にあるという。

『日本の美術359蓮華紋』は、天の中心を象徴する蓮華は、中国では仏教が伝わる以前から存在し、北魏の石窟寺院や高句麗の壁画古墳の天井を飾る蓮華紋その系統を引くと考える説がある。とすれば、法華堂の蓮華形や法隆寺などの天井格間に描いた蓮華紋も、単なる仏教的装飾とばかりは言えなくなる。蓮華形は8世紀には一般的な堂内荘厳具だったという。
変色があったとしても、まず彩色の鮮やかさとそれがよく残っていることに驚く。次に花弁が6つしかないことに気づく。そして、その花弁は、花托にくっついて開いているのではなく、一つ一つが装飾文様と化していて、それが花托を一巡している。
このような蓮華が、塔の初層天井格間の一つ一つに描かれていたのだった。ひょっとして、眼を凝らせば、金網の向こう、塑像群(和銅4年、711)の上方に見えるのかな?
塑像群についてはこちら

このように天井格間に蓮華が並ぶものに、法隆寺金堂の天蓋がある。
天蓋だけでなく、金堂の天井格間にも蓮華がありそう。

『国宝法隆寺金堂展図録』は、内部は天井に格子を組んで各間に蓮華文を一箇ずつ彩絵し、斜めの支輪部には蓮華一枝を描いているという。
橘夫人のものであったと伝えられる念持仏を安置した厨子にもよく似た格天井と支輪があって、各格間には五弁の蓮華が描かれていた。
天井の蓮華の花弁は6枚で、内側に湾曲した花弁の表現など五重塔の天井格間の蓮華とよく似ているが、外側の線が尖っていない。そして、花托が大きいので、花弁は薄く描かれている。
蓮弁のようよな形の2枚の葉から平たい茎が3本、ゆらゆらと伸びていて、半分に折れた蓮葉が、中央は上向き、左右は外向きに描かれている。蓮華唐草というものでもないのだが、途中で茎が分かれたり、朱い葉が出たりしている。
中央の茎の上側には、彩色は残っていないが、火焔状のものの輪郭だけがあるのは、蓮の花だろうか。

天井に蓮華が描かれていることについては、以前に敦煌莫高窟で専門ガイドの丁淑軍さんに、火事にならないように、水を連想する蓮華が描かれましたと説明を受けながら、中心柱を右繞(時計回りに一巡)した思い出がある。
当時は、仏教のモティーフである蓮華が、中国では水を連想するものになっていったのかな思っていた。ところが、それは仏教以前からある中国での蓮華のイメージだとは。 

蓮華の並ぶ天井 北魏(386-534) 敦煌莫高窟第251窟
ラテルネンデッケ(三角隅持ち送り天井)と呼ばれる、正方形の中に、斜めにした正方形を入れて、天井を持ち送り、頂部は丸い穴で換気の役目を果たすという中央アジアで伝統的な天井の組み上げ形であるが、莫高窟では天井の装飾モティーフとして用いられている。
その中央の大きな同心円状のものが、褪色してわかりにくいが、よく見ると蓮弁が描かれていた痕跡があり、蓮華であることがわかる。

中国の石窟寺院の天井にも蓮華がある。

蓮華 龍門石窟賓陽中洞窟頂 北魏、熙平2年頃(517)
『龍門石窟展図録』は、賓陽中洞は幅11m、奥行き10m、高さ9mの空間で、天井中央には大蓮華と飛天が浮彫りされ、四隅に大蓮華文が線刻されているという。
先の尖った単弁の蓮弁が二重に巡り、中央には大きな花托が表されている。

立体的な蓮華 北魏中期(470-494) 雲崗石窟第9窟前室天井
清時代に彩色されて違和感のある窟。
天井には飛天が蓮華を掲げて浮かんでおり、力士の頭上には中央に蓮華のあるラテルネンデッケを小さな飛天が四方から支えている。蓮弁は先が尖った単弁。
大蓮華と飛天たち 同窟明窓頂部
明窓とは上図の左側に開かれた四角い穴で、外から後室の主尊の顔が拝めるように開けられている。
蓮華は二重につくられている。複弁だが、1枚1枚が一つの花弁になっておらず、短い垂幕のように繋がっている。

その後、後漢時代の墓室天井に蓮華が描かれているのを知った。
『蓮展図録』は、中国へは、蓮はかなり古い時代に入ったようだが、「蓮」という言葉自体はしばしば蓮の実を意味し、蓮の花は「芙蓉」「蓮花」「荷花」などと表現された。中国古代で特筆すべきは、墓室の天井や鏡その他で蓮の花が光芒を放つ形にデザインされていることである。中国古代史の研究者である林巳奈夫は、それらの蓮が天の中央の星座群を代表する天極星を意味し、最高神である天帝そのものの象徴でもあったと論じたという。

蓮華文 後漢末期(2世紀末-3世紀初) 打虎亭漢墓2号墓中室天井 河南省密県(黄河の40㎞ほど南、嵩山の20㎞東) 
『世界の大遺跡9古代中国の遺産』は、中室天井に描かれた蓮華文。蓮華は仏教との関係が強く、この文様も西域からの仏教伝来とともに採用された可能性がなくもないが、むしろ中国に伝統的に存在した文様と考えるのが妥当であろう。すなわち花を上からみたモチーフは殷代から存在し、漢代にはさまざまな器物に応用されたのである。とくに光の象徴として四葉文が鏡の鈕座や乳などに用いられることからすれば、この蓮華文も墓室を明るくする意図から天井に描かれたと考えられるという。

やはり仏教よりも、伝統的な文様として蓮華が描かれたようだ。
大きな4枚の尖った花弁の間に、あまり尖っていない4枚の花弁が置かれ、その内側には8枚の尖った花弁が花托を囲んでいる。
これが天井で光芒を放ち、墓室を明るくしている蓮華。
なお、四葉文は柿蔕(してい)文とも呼ばれ、前漢時代には登場している。それについてはこちら
このような中国の墓室装飾の影響を受けて、高句麗でも古墓の壁画に四神や蓮華が描かれている。
四神図についてはこちらこちら

安岳3号墳奧室天井 黄海南道安岳郡五菊里 4世紀後半築造
花弁が尖っているのは似ているが、7枚である。

中央に線が描かれているのかいないのか、小さな花托から葉脈は出ているが、後漢のもののように蓮弁の先まで到達せず、先細りに途切れている。

双楹塚(そうえいづか)奧室天井 平安南道南浦市龍岡郡龍岡邑 5世紀末築造

複雑な蓮華で、後漢のものに比べると丸まった花弁の蓮弁が8枚、そして蓮弁と蓮弁の間に8つ、光芒を放つ尖った意匠が施されている。
丸い花弁の列の内側には8つの花弁が巡り、その内側にはさらに小さな丸い蓮弁が並んでいる。中央の円は小さく、花托には見えない。このような表現は、蓮華を上から見ているというよりも、下から見上げているのではないだろうか。

蓮華文 高句麗(5世紀末-6世紀初) 徳花里第1号墳天井 大同郡徳花里
こちらは、種子の入った穴の表された大きな花托があるので、開敷蓮華を上から見下ろした図である。花弁の先が光芒を示す形となっている。

『高句麗壁画古墳展図録』は、斉藤忠名誉教授は、高句麗の古墳文化の痕跡は大和地方にも見られ、その一つに奈良県御所市の水泥古墳の石棺に刻まれた蓮華文の彫刻をあげていますという。

蓮華文 6世紀後葉 石棺 奈良県御所市水泥(みどろ)北古墳
御所市教育委員会が作成したページによると、直径25mの円墳で、玄室と羨道にそれぞれ1基ずつの家形石棺が置かれている。
特に注目されるのは、羨道にある石棺蓋の縄掛け突起である。小口部の縄掛け突起には蓮華文があるという。

鳥形脚豆(きゃくとう) 戦国時代、前4世紀 木・漆 高さ28.5長さ27.5口径22.5蓋径22 2000年湖北省荊州市天星観2号墓出土 荊州博物館蔵
『中国国宝展図録』は、豆はたかつきのこと。翼を広げ、蛇を足でつかんだ鳥が、天を仰ぎ、口で円形の皿を支える。
皿の周囲には花びらを刻んでおり、皿全体で蓮花を表しているようである。
古墳中国では蓮花も鳥もしばしば太陽を象徴したから、鳥が太陽を運んで天を飛ぶさまを露わをしているとみて無理はないであろうという。
確かに仏教が中国に伝来する以前から、蓮華は装飾モティーフとなっていた。
皿の縁を巡る蓮弁は、下部が繋がっていて、雲崗石窟第9窟の蓮華の表現に似ている。 

殷の青銅器にも蓮華が表されているというが、現在のところは発見できていない。

関連項目
蓮華座3 伝橘夫人念持仏とその厨子
法隆寺金堂天蓋から1 敦煌にも
法隆寺金堂天蓋から4 また敦煌莫高窟へ
法隆寺の五重塔はすっきりと美しい
ラテルネンデッケといえば敦煌莫高窟だが
中国の古墓にもラテルネンデッケはなかった
高句麗古墳の三角隅持送り天井(ラテルネンデッケ)は
柿蔕文?四葉文?2

※参考サイト
御所市教育委員会の水泥古墳

※参考文献
「日本の美術359 蓮華紋」 上原真人 1996年 至文堂
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1999年 文物出版社
「蓮 清らかな東アジアのやきものX写真家・六田知弘の眼 展図録」 2014年 大阪市立東洋陶磁美術館(MOC)
「世界の大遺跡9 古代中国の遺産」(監修江上波夫1988年 講談社) 
「高句麗壁画古墳展図録」(監修早乙女雅博 2005年 社団法人共同通信社)

「龍門石窟展図録」 2001年 MIHO MUSEUM