2014/08/01

仏像台座の獅子3 古式金銅仏篇



念持仏とみられる小さな金銅仏にも獅子は登場する。いつものように遡っていくと、

金銅如来坐像 北魏、太和年間(477-499) 高さ16.0㎝ 個人蔵
同書は、太和年間には明るく面長な顔で量感のある鍍金の美しい像が多数残っている。如来坐像は再び頭部正面に渦状を表したものもあり、偏袒右肩の右肩に大衣を僅かに掛け、下に着ている僧祇支に美しい模様を表してもいる。右手は施無畏印、左手は膝辺りで衣をつかむスタイルが流行し、台座は四脚座の上に宣字形台座を重ねた形で、四脚座の正面には供養塔を線彫りし、あるいは浮彫りし、四脚座の上には二頭の獅子が伺候するという。
台座と比べ、かなり小さめの獅子が、仏を守るかのように、辺りを警戒している。

ところで、敦煌以西の西域では、獅子の登場する仏像を見付けることができなかった。残っていないだけだろうか。
獅子という中国にはいなかったはずの動物が、どのように仏像にとりこまれたのだろう。鎮墓獣としての獅子は紀元前から中国にあるが、それが新来の仏像と合体したとは思えない。
それについてはこちら

『小金銅仏の魅力』は、西晋の永嘉年間(307-312)の乱以後、漢民族の西晋が南匈奴に滅ぼされて都の洛陽を失い、南に移って東晋を打ち立てた。揚子江以北の華北では南匈奴の他に、羯(けつ)、氐(てい)、鮮卑、羌(きょう)らが次々と国を興して勢力を争い、更にその下の各部族も興亡する五胡十六国時代となった。これらの素朴な5種族は、漢文化との激しい抗争の末、次第にこれと同化し、種族統一のためにも早くから仏教を熱心に受容し、胡族の国王が学識ある僧侶を招聘して国政の諮問を求めたことは一層仏教の位置を高め、その隆盛をもたらした。この時代のものとして、彼らの携帯用念持仏とも言われている金銅製の如来坐像が遺されているという。
小さな金銅仏は移動生活に適した北方遊牧民の仏具だったのだ。

『中国の仏教美術』は、高さが1mにも満たないほどの金銅製仏像を、一般に小金銅仏とよぶ。小金銅仏には大別して、ガンダーラ様式の影響を受けた中央アジア制作のもの、それに、さらに中国の伝統を色濃く反映したと考えられるものの二種類がある。このうち、北中国で造られたものを一般に古式金銅仏と称する。
4世紀から5世紀半ばごろにかけて、大量に造られたのが、10㎝に満たない小型の古式金銅仏坐像群である。その形式はほとんど一定しており、通肩の大衣全面に左右対称の衣文線をみせ、右手の甲を正面に向け禅定印を結び、台座左右には、正面向きで大ぶりの獅子が配されている。これら坐像群の錆を化学的に分析した結果、その産地は、オルドス地域を中心とした北中国と推定されるという。

金銅如来坐像 北魏、正光2(521年) ロンドン、W.ブルヒャルト氏旧蔵
『仏像の系譜』は、台座前に垂下するU字形の裳裾とその両側の獅子の頭の脇を通って自然な流れを見せる衣端の表現においてフォッグ美術館のものに最も近く、台座中央に蓮華の一花を大きく表すのも供養花を表すという点で共通している。時代は下るが、様式は五胡十六国仏のものであるという。

傘形光背やU字形光背の規則的な線で表される静かな雰囲気を破るかのような、迫力?ある獅子の表現となっている。

金銅如来坐像 五胡十六国、大夏勝光2年(429) 大阪市立美術館蔵
同書は、両肘にかかり、外側に垂下する衣端は、後に、その先端を三角形に尖らせたり、水平や斜めに切断したり、形式化し硬直していく(但し、この像には疑問も出されている)という。

左側の獅子はよくわからないが、右側の獅子は口を大きく開いている。

金銅如来坐像 高11.8㎝ 五胡十六国時代、5世紀 東京藝術大学蔵
『小金銅仏の魅力』は、両獅子を台座両側脇に表す獅子座もガンダーラ的である。
中国風の坐像タイプで大量生産されたと思われる小像がわが国にも多く伝えられている。中でも東京藝術大学蔵は愛らしい本体と共に光背が残されているのが貴重で、光背には両脇侍僧形像と両飛天を取り付け、更に天蓋を備えるための柱が頂上に残されている。中尊の大衣の衣褶が規則的にU字形を繰り返す中国風であるのに対し、台座両脇には獅子、中央には線刻で蓮華を表すなど、フォッグ美術館のガンダーラ式坐像の形式も残している
という。
獅子は台座の装飾と化してしまったかのように表される。獅子とも思わないで、モデルとなった古式金銅仏をまねて造ることを繰り返した結果、このような扁平な獅子になっていったのだろう。


金銅如来坐像 五胡十六国時代(5世紀) 高さ8.9㎝ 個人蔵
同書は、このタイプが五胡十六国仏の形体として固定したものであるらしく、現存のものでは最も多いタイプである。肉髻の上面が平らで、その根元を少し絞って、帯を一巡りさせるように成形している。台座の獅子が少し内側に寄っている点に特徴がある。また、禅定印を結ぶ手の形は、五胡十六国仏にしばしば見られるように曖昧であるが、そこに指の関節を刻んだり、台座の背面の幅を少し狭めているなど、東京国立博物館やガンダーラ風のフォッグ美術館の五胡十六国仏の名残を留めている点に注目されるという。
獅子というより熊のようだが、それでも東京藝術大学蔵のものよりも存在感のあるつくりだ。

金銅如来坐像 五胡十六国時代(4-5世紀) 佐野美術館蔵
同書は、肉髻は大きいが、通肩の衣褶は形式的となり、同鋳の台座の両脇に鋳出された獅子もまるで図式化されたようにおとなしい。腹前に組まれた両手も、掌を内側に向けた拱手の形で、ガンダーラ仏とは異なるという。
どちらの獅子も口を開けている。前肢の筋肉表現は的確かどうかはともかく、量感が感じられる。

金銅如来坐像 五胡十六国時代(4-5世紀) 高さ14.7㎝ 個人蔵
同書は、肉髻が異様に大きく、舎利壺の役目をした名残にも見える。衣褶も片流れであるが、両脇より垂れる衣端が三角状に下に向かう点や台座両脇の獅子や、その内側の供養者らしい人物や指の関節の表現は異なり、フォッグ美術館のガンダーラ式の像との繋がりを考えさせるという。
これも熊のような獅子である。

それ以前になると、仏像の顔は目鼻立ちがややはっきりとしている。

金銅如来坐像 五胡十六国、後趙、建武4年(338) 高さ40㎝ 伝河北省石家荘出土 サンフランシスコ・アジア美術館蔵 
『仏像の系譜』は、年代の明らかな最古の金銅仏として有名であり、大型の像として貴重である。大きな肉髻を持つ頭部は大きな切れ長の杏仁形で、口元に微笑を浮かべる。面長な顔の形は、だいぶ中国的になってきたことを示している。胸元のU字形衣文が形式化し四角張っている。このような衣形からさらに硬直化し、手は本像のように禅定印とし、台座両側に獅子を配した形が、五胡十六国仏の典型となっていく。ここでは、台座はインド以来の方形で、3つの孔があり、元は両端の孔に獅子、中央には香炉あるいは供養花がついていたであろうという。

どんな獅子だったのだろう。

建武4年像が「だいぶ中国的」な顔というのは、以下の仏像と比べてということである。初期の古式金銅仏はガンダーラ風、あるいは西域風の容貌だった。

銅造右如来坐像 五胡十六国時代(4世紀) 高さ13.5㎝ 東京国立博物館蔵 
『小金銅仏の魅力』は、横断面が半円形の台座に、手を釈迦の瞑想のポーズである禅定印に結んで坐る。肉髻は大きく、上に孔があり、五胡系仏像の肉髻は舎利容器に用いられたという言い伝えを信じさせる。大きなアーモンド形の目や口髭、大衣の端を左肩より背後に垂らす方法、地髪部正面のアーモンド形の毛描き。胸前の衣褶の片流れ。全体にガンダーラ風が強く、中国初期の仏像が中央アジアの仏像を通じて西方の様式を反映していることが分かるという。

この像も獅子が失われてるのだろうか。

金銅如来坐像 五胡十六国(4世紀) 高さ20㎝ 個人蔵 
『仏像の系譜』は、頭頂に大きな肉髻をのせ、杏仁形に大きく見開いた眼と口髭、頭光が残っているのが貴重で、以上の要素は中央アジア・コータンの金銅製仏頭を思い出させる。ガンダーラ以来のU字形衣褶を示す通肩の大衣の端を左手で把んでいるのは、ガンダーラ以来アフガニスタン(ショトラック)・インド(マトゥラー)にあり、衣端を僅かに台座前に垂らしているのは中央アジアの像に見られた。西方的要素の強いもので、中央アジアから中国への過渡的な要素を考えさせる貴重な存在であるという。

元々獅子はいなかったのかも。

金銅如来坐像 五胡十六国(4世紀前半) 伝河北省石家荘出土 高さ31.8㎝ フォッグ美術館蔵
『仏像の系譜』は、舎利容器として利用されたという四角の開口を持った大きな肉髻が頭上に太い台輪を設けて載せられている。前中央で分ける髪形はアフガニスタンで始まり、すでに中央アジアにも見えた。2本の衣褶もガンダーラ風である。通肩の衣の胸の部分で、U字形が向かって左に片寄る衣文や、両肩に突起状を見せる焔肩の表現は、アフガニスタンの如来像に見た。禅定印を結ぶ両手の下に垂下する裳裾中央のU字形衣文と、その両側の三角状突起を作って垂下する衣端-この組み合わせは、ガンダーラのタキシラやハッダで見た末期的な裳懸座の形式に近く、現存の五胡十六国仏の中でこの像だけが見せるかなり写実的な形式で、顔貌や肩の焔形の表現と共に、本像がガンダーラやアフガニスタンの石仏や塑像の系統を受け継いでいることを物語る要素である。当地や中央アジアでも、本像のような金銅仏が作られていたのかも知れない。反面、台座の両側に逞しい獅子(この獅子が体軀を少し斜めにするのはガンダーラの台座にも見られた)を、中央に壺に生けられた蓮華の供養花を表すのは、後の五胡十六国仏に流行する台座形式であり、中国以前には見られなかった。台座両側面に一は合掌し、一は蓮華を手にする供養者を立体的に浮彫り風に表わし、この人物が靴をはき、筒袖の衣を膝下まで下げているのは、中国風ではなく、周辺の塞外民族の服装に近い。

このように本像には、ガンダーラ・中央アジア・中国の要素が混在しており、  ・・略・・  中央アジアにいまだ類品の見られない現状では、中国五胡十六国仏とする他あるまいという。
衣端には藤井有鄰館蔵の金銅菩薩立像(4世紀初)とよく似た、ギザギザが左右対称に向かい合う表現が見られる。
これについて同書は、衣端の宝石象嵌の痕を示すような凹状のひし形部分という。
貴石の象嵌というのは思いつかなかった。一番近い象嵌の形を探すと金糸金粒嵌玉獣文玉勝形簪頭(後漢-三国時代、2-3世紀)になるが、菱形ではない。

おまけ

金銅如来頭部 3-5世紀 中央アジア 高さ13.6㎝ 伝コータン出土 大谷探検隊将来 個人蔵
『中国の金銅仏展図録』は、中央アジアの数少ない金銅仏の一つである。頭光も共に鋳出し、後頭部は頭光と同一の面によって平らに仕上げられている。大きな宝髻とその下に回す紐、細い波状の縦線による毛描きや見開いた大きな目、太い口髭-これらはガンダーラ北部スワート地方のブトカラ寺院遺跡で発掘された片岩製仏頭に類似している。それらは、五胡十六国仏にもそのまま踏襲される諸点であり、ガンダーラと中国を結ぶこの地方の仏像様式を知る上の貴重な作例である。イランのシャーミー出土の青銅人物像(紀元前)の頭部を独立して造る手法と同工であるのも極めて興味深いという。
金銅仏頭 3-4世紀 中央アジア 高さ17.0㎝ コータン出土 大谷探検隊将来 東京国立博物館蔵
『仏像の系譜』は、大谷探検隊が天山南路の西寄りのコータンで発見した如来像の頭部。基部を二重の紐でヘラクレス結びとした大きな肉髻や杏仁形の大きな目、ハの字形の口髭など、ガンダーラのスワート地方紀元2世紀後半から4世紀頃の石像に類似する。額の八曜の花鈿も西方起源のもの。底部は塞がれ、本体とは別鋳。イランのパルティア時代の青銅人物像と類似の技法であるという。

このような仏頭はどんな体にのせられていたのだろう。坐像か立像かもわからないが、坐像としたら、獅子座に坐っていたのだろうか。

   仏像台座の獅子2 中国の石窟篇← 
            →仏像台座の獅子4 クシャーン朝には獅子座と獣足

関連項目
獅子座を遡る
仏像台座の獅子1 中国篇
敦煌莫高窟275窟1 弥勒交脚像は一番のお気に入り
前屈みの仏像の起源
石造の鎮墓獣は後漢からあった
前屈みの仏像の起源

※参考文献
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国★文明の十字路展図録」 曽布川寛・出川哲朗監修 2005年 大広
「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」 1995年 大阪市立美術館
「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版

「中国の仏教美術 後漢代から元代まで」 久野美樹 1999年 世界美術双書006 東信堂 
「仏像の系譜 ガンダーラから日本まで」 村田靖子 1995年 大日本絵画

「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館