2013/08/27

ギリシア神殿3 テラコッタの軒飾り




ギリシアの神殿が木柱から石柱へと替わっていったのは、神殿に奉納する神話の題材などを浮彫した石板軒のトリグリフの間に嵌め込むようになったために、木柱では軒を支えるのが困難になったと思っていた。
ところがそうではなかったらしい。

テルモスのアポロン神殿上部構造の復元図 前630-610年頃
『世界美術大全集3エーゲ海とギリシア・アルカイック』は、テルモスのアポロン神殿の周柱は、直径が65㎝もあり、サモス島ヘラ神殿の場合と比べるとかなり太い。これは、後者の屋根が草もしくは土で葺かれていたのに対し、前者は瓦葺きで軒先の梁にかかる重量が増したことからも納得できる。しかし、単に構造的な理由からだけではなく、全体の造形的なバランスが考慮された結果であるとも考えられる。なぜなら、テルモスでは屋根瓦のほかにテラコッタ製の羽目板や軒先装飾、外装材が多数発見されており、すでにアーキトレーヴ(水平梁)の上にトリグリフ(束石)とメトープ(装飾板)を交互に並べ、さらに重厚なコーニス(軒)を載せるドーリス式のオーダー(建築様式)が成立し、柱と上部構造とり間に意匠的な関連づけがなされていたことを裏付けているからでもあるという。
テルモスのアポロン神殿はこちら
アルカイック期の第二の特徴として、テラコッタ製の外装材の普及と装飾の発達が挙げられる。当時の神殿建築は、とくに梁や軒を中心に赤や緑や青で彩色された豊かなテラコッタ装飾に覆われていて、現在よりはるかに華やかな印象を与えていた。
この外装材は、円柱や壁体が石材に替えられたあとも、木造の上部構造とともに大量に使われ続けるのである。ギリシア神殿の柱間が密になったのは、折れやすい石の梁を載せたことに由来するばかりではなく、木柱に木造の梁を架けていた初期の段階においてすでにテラコッタの外装材を多用していて、梁にかかる重量がかなり増していたことと関係があると思われるという。

テラコッタの外装材とはどんなものだったのだろう。たくさん使われた割に遺品は少ない。

メトープ テルモスのアポロン神殿 前620年頃  テラコッタ 高さ93㎝ アテネ。国立考古博物館蔵
同書は、神殿がまだ木造であったころ、石材に代わって陶板がメトープ材として用いられていた。木造の部材の間にはめ込まれたもので、損傷が激しいものの36面のうち7面が現存している。彩画技法はプロト・コリントス式陶器画と同じ。画面の両サイドには無地のトリグリフとの移行部として彩色ロゼット文帯が描かれているが、随所で画像の一部がこの文様帯の上に重なっている。アルカイック時代の陶器画によく見られる手法で、あくまでも画像に重点を置いたアルカイック的画像法といえる。
ここに描かれているのはテーベ王家の伝説物語で、ほかに英雄ペルセウスのゴルゴン退治、伝説の狩人オリオンの物語、美の三美神カリテスが描かれていたという。
全体が残っているのではないようだが、嵌め込むための出っ張りが上側に2つある。このようなものが上下左右にあったのだろうか。 
メトープ 同神殿 前620年頃 アイトリア、テルモス出土 テラコッタ 高さ55㎝ アテネ、国立考古博物館蔵
同書は、アイトリアのアポロンの聖地テルモスの神殿址から発見された彩色陶板は、神殿の軒下のメトープ部にはめ込まれていたと考えられ、プロト・コリントス式陶器画の細密技法を大がかりに用いた貴重な遺品であるという。
これが復元図に描かれていたメトープだが、上のメトープのような、嵌め込むための出っ張りはなく、家形をしていて、日本の絵馬のようだ。
着衣の文様もよくわかる。 
メドゥーサ 前560年頃 イタリア、シラクーザ出土 テラコッタ 高さ56㎝ シラクーザ考古博物館蔵
同書は、古代ギリシアの神殿や彫刻などの芸術作品はすべて、制作当時は原色によって色彩が施されていた。大理石その他の石材に塗布された顔料が非常に褪色しやすいものに比べるとねテラコッタを素材とする作品は彩色を堅牢に残すため、古代芸術の本来の姿を伝える大切な資料となっている。
画面に4つの丸い穴が開けられており、背後の木の板に留めて用いられていたことが判明している。現シラクーザ大聖堂が建立されている場所にはもともと古代神殿が建てられていたが、その古い木造アテナ神殿の破風ないしメトープを、このテラコッタ浮彫りが飾っていたのではないかと推定されているという。
テラコッタの板に彩色したという簡素なものではなく、高浮彫に近い。粘土を型に入れて成型すれば、同じものがたくさんできただろう。

ところで、ペロポネソス半島のエピダウロス考古博物館では、クラシック時代およびヘレニズム時代の異なる建物址からテラコッタの部材が発見されている(『CORINTHIA-ARGOLIDA』より)。
このようなテラコッタ製のものが、木造あるいは石造の神殿の上部構造の部品であったことは確かだろう。

コーニスの隅材
2面に刳りのある部材。アンテミオンと卍繋文、下側には卵鏃文。
アンテミオンとは、『唐草文様』は、パルメットとロータスの組み合わせによるギリシア式唐草連続文。古典期ギリシア世界に一般的な装飾文様という。
アーキトレーヴ
こちらは平たく、上に凸部が付く。左端に裏側のテラコッタの端が見えている。アーキトレーヴの内側外側を飾っていた様子がわかる。
同じくアンテミオンと卍繋文、下面は卵鏃文。
軒の出っ張りだったのだろうか
アンテミオン・卍繋文・卵鏃文と文様は同じだが、配置が異なる。下面にアンテミオンと卵鏃文あり、薄い横面に卍繋文が並んでいる。
この型の部材は多かった。文様の配置は同じ。


しかし、それぞれ色や大きさが異なっている。
きっとそれぞれが取り付けられた建物が異なっていたのだろう。
コーニス
立体的に描かれた卵鏃文様と卍繋文。
上の軒飾りの文様が平面的だったのに、これは立体的な表現になっている。ということは、すでに石彫でこのような軒飾りがあったのだろう。
他のものよりも時代が下がるのかな。
エピダウロスでは、前4世紀に様々な神殿やプロピュライア(聖域への門)等が石材で造られた。それらが博物館で一部復元展示されている。
上のテラコッタ製の部品群は、それらの石造建造物以前にあった建物群の木材部を覆っていたものと思われる。
それが何時の時代のものか、陶器の文様を調べれば簡単にわかると思っていた。ところが、なかなか見付けることができない。
今回の旅行では、どこかでこのアンテミオンという文様を見ていたはずなので、それが見つかったら、続きを書こう。

また、アンテミオンの下部には蔓状のものが左右に出て、一見唐草のようだが、そこから枝分かれして次の蔓が伸びるということはない。『唐草文様』の著者立田氏は、このようなものを「ギリシア唐草」として、左右に枝分かれしながら伸びる唐草文とは分けている。
欲張りな私は、唐草文がいつ頃できたのかを実物を見て知るのが今回の旅行の目的の一つだったが、もう最初の段階で、「ギリシア唐草」に出会ってしまった。

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関連項目
メアンダー文を遡る
卍文・卍繋文はどのように日本に伝わったのだろう
卍繋文の最古は?
オリンピア4 博物館1 フェイディアスの仕事場からの出土物
ギリシア神殿5 軒飾りと唐草文
ギリシア神殿1 最初は木の柱だった
メドゥーサの首

※参考文献
「世界美術大全集3 エーゲ海とギリシア・アルカイック」 1997年 小学館
「図説ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて」 周藤芳幸 1997年 河出書房新社
「世界歴史の旅 ギリシア」 周藤芳幸 2003年 山川出版社

「唐草文様」 立田洋司 1997年 講談社選書メチエ