2013/06/14

X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系



雲崗石窟で最も早く開かれた曇曜5窟(460-465年)の中の飛天や供養天に、X字状に交差したり、交差部に丸い飾りのある、短い紐状のものがあった。

供養天 雲崗石窟第一七窟西壁仏龕 雲崗前期(460-465年)
天衣とも瓔珞とも思えないような紐状のものが腹部の丸い飾りのところで交差している。
X字状に交差する天衣というものは、北魏が洛陽に遷都して間もない頃(498年)、古陽洞北壁の交脚弥勒像に最初に表されたはずだった。
それについてはこちら
それが、北魏前期に、菩薩像ではないものの、X字状のものを身に着けているのは驚きだ。

ところが、北魏前期とされる交脚弥勒像にX字状に交差する瓔珞が見つかった。

弥勒菩薩交脚像 砂岩 高44㎝ 河北省曲陽県修徳寺遺址出土 北魏前期 河北省博物館蔵
『中国★文明の十字路展図録』は、頭に宝冠をつけ、両側に冠繒を長く垂らした菩薩が、2頭の獅子座に交脚して坐し、胸前で合掌する。菩薩の四角く丸い顔立ちやふとりじしの体軀に、北魏前半期の特徴が見出される。交脚菩薩は兜率天で下生を待つ弥勒菩薩を表し、同時期の雲崗石窟でも多くの弥勒菩薩が造像され、未来仏に対する信仰の隆盛さを物語っているという。
頭部が大きく、それが前に突き出して表されている。
敦煌莫高窟の275窟(北涼時代、397-439年)交脚弥勒像も2頭の獅子を従えているが、獅子に後ろ肢はなかった。この像もやはり獅子は前脚しかなさそうで、同じ系統の弥勒像といえるだろう。
275窟の弥勒像とは、瓔珞が小さな丸い珠と細長い珠を交互に繋いでいる点は共通するが、異なる点は、瓔珞が腹部で交差していることだ。
交脚菩薩像 雲崗石窟第17窟明窓東側 北魏、太和13年(489)年銘 
『北魏仏教造像史の研究』は、銘により弥勒であることが明らかで、他の大方の無銘の交脚菩薩像についても同様に弥勒菩薩と考えられている。 
太和13年龕と第11窟明窓東側の太和19年(495)龕はわずか6年の差であるが、その像容は著しく変化し、太和18年(494)の洛陽遷都を境とした雲崗前期と後期の変化、つまり、張りのある量感的な表現から、そりの強い線条的な中国様式への変化を顕著に表している。

ここでは13年像グループを雲崗前期式、19年像グループを雲崗後期式と呼ぶことにする。
この前期式の着衣は、上半身裸形系のものと、胸を左肩から斜めに覆う布(通常絡腋と称される幅広の布)をつけるものと2種ある。この斜めに覆う布は背面にまわって両端を結ぶか巻きつけるかしたと思われるが、天衣とは別の布のようである。この形式は炳霊寺石窟の西秦時代の像にすでに見られ、天水麦積山等の早期石窟造像に多い。頸飾(下辺中央が尖る)や双獣が向かい合うデザインの胸飾のほか、瓔珞をV字状あるいはX字状に懸ける。この天衣が肩上で丸く弧を描く表現も炳霊寺西秦像をはじめとする中国初期の菩薩のほか、西域に多く見られる。双獣胸飾ももちろんインド伝来のもので、この雲崗前期式像の着衣・装飾はことごとく西方色が強い形式であるという。
なるほど、菩薩は量感的で、3本の線条のある幅広の絡腋といい、頸飾は中央下が尖っている。
そして、私にとって謎だったX字状の瓔珞についても記述があった。西方的な装身具だったのだ。
では、X字状の瓔珞は西方的なら、X字状の天衣もその影響を受けたのではないのだろうか。

同書は、後期式の着衣はすべて上半身裸形、胸を斜めに覆う布を着ける例はない。天衣は両肩を覆って正面でX字状に交叉し、両腕に懸けたのち左右に垂下する。天衣の肩に懸かる部分を外側にヒレ状に尖らせるものや、天衣のX字状の交叉点に環状飾りをつけるものも多い。裙は両膝下の垂下部を大きく作り、幾条もの襞を作ってその先端を左右に扇状に広げる。装身具は全体に簡略化する傾向にあり、前期式で見られた双獣胸飾は姿を消し、頸飾も瓔珞もつけない例がかなりある。そして、これらの装身具にかわって菩薩の胸~腹部を飾るのがX字状の天衣と、その交点に留められた環状飾りである。この環状飾りは漢文化に古い伝統を持つ璧の一種と考えられ、後期式では西方的要素が消えて漢化の傾向が強いことがわかる。上半身裸形の形式は前期式にもあったが、後期式のそれは前期裸形式の延長ではなく、むしろ、前期における胸を斜めに覆う布や双獣胸飾などの西方的要素を排し、X字状天衣を採用したことによって生じた結果だろうという。
何と、私の知りたいことが全て記されていた。この本は出版されてすぐに買ったが、開くのがおこがましくて、もっと勉強してから読もう、入院した時にでもじっくり読もうなどと思いながら、開かないでいたのだった。

従って、雲崗石窟第17窟の飛天や供養天のX字状のものは天衣ではなく、西方系の瓔珞ということになる。

脇侍菩薩立像 永靖炳霊寺第169窟東壁 西秦時代(385-431)
『中国石窟永靖炳霊寺』は、不揃いに並ぶ千仏の中に説法図的な一仏二菩薩図が二方にある。その北側のものは仏は通肩の袈裟をまとい、禅定印を結び、二菩薩は立って侍すという。
同書は菩薩の着けているものへの記述はないが、この菩薩は、雲崗石窟第17窟供養天と同じような紐状のものを飾りのところでX字状に交差させたものを着けている。これが西方的な瓔珞らしい。
X字状の瓔珞が西方的なものなら、もっと西にあるキジル石窟にもあるはずだ。

交脚弥勒菩薩 キジル石窟第177窟主室入口上方弥勒菩薩説法図 発展期(4世紀中葉-5世紀末)
『中国新疆壁画全集克孜爾1』は、弥勒菩薩は珠冠を被り、宝繒は翻っている臂釧などの装身具を着け、右手は説法印、左手には浄瓶を持ち、交脚して坐すという。
確かに天衣とは異なる細い線状の瓔珞がX字状に交差している。しかも瓔珞は長くて、体と脚をくぐって上方に向かっている。
菩薩半跏像 キジル石窟第38窟主室入口上方弥勒菩薩説法図うち 発展期(4世紀中葉-5世紀末)
同書は、これは左右対称に坐す思惟菩薩である。服飾や体型は右側の菩薩とほぼ同じで、身光の保存状態が良い。輻射形線条の光があるという。
こちらの菩薩の瓔珞は短く、うつむき加減に坐っているので、瓔珞が前に垂れて、二の腕から後方に向かっている。
また、瓔珞ははっきりと小さな珠が2列に並んでいるのがわかる。
太子像 キジル石窟第118窟主室正壁仏伝図うち 初創期(3世紀末-4世紀中葉)
同書は、太子の宮中での生活部分であるという。
出家前の釈迦が着けているのもX字状の瓔珞だ。こちらの瓔珞も短い。
確かに、雲崗石窟より西にある永靖炳霊寺では五胡十六国時代、西秦(385-431)の窟でX字状の瓔珞が見られ、それより遙か西、キジル石窟では、石窟の初創期(3世紀末-4世紀中葉)にX字状の瓔珞が菩薩を飾っていた。
X字状の天衣中国風のものだったが、X字状の瓔珞は西方から請来された装身具由来のもので、この2つは全く異なる起源を持つものだということが確認できた。
キジル石窟の菩薩は3図ともに冠から出た、或いは冠を頭部にくくりつけたリボン状のディアデムが翻っている。
このディアデムとの起源がササン朝ペルシアなら、X字状の瓔珞もササン朝ということになるだろうか。

アルダシール1世硬貨(表) 銀 ササン朝ペルシア、224-241年 平山氏蔵
『ガンダーラとシルクロードの美術展図録』は、鷲文と耳覆いのあるティアラ冠を戴く、右向きの国王胸像という。

ササン朝では3世紀前半にすでにディアデムは見られるが、この図からはX字状の瓔珞を付けていたかどうかわからない。 
帝王ライオン狩り文皿 銀鍍金 ササン朝ペルシア、4世紀
この図では、ディアデムは付けているが、X字状の瓔珞は付けていない。
X字状の瓔珞の起源はササン朝ではなかったのかも。

関連項目
前屈みの仏像の起源
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞

※参考文献
「中国★文明の十字路展図録」 曽布川寛・出川哲朗監修 2005年 大広
「中国の石仏 荘厳なる祈り展図録」 1995年 大阪市立美術館
「小金銅仏の魅力 中国・韓半島・日本」 村田靖子 2004年 里文出版
「北魏仏教造像史の研究」 石松日奈子 2005年 ブリュッケ
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作所・炳霊寺文物保管所 1989年 文物出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾1」 段文傑主編 1995年 天津人民美術出版社
「世紀世界美術大全集14 西アジア」 2000年 小学館  
「ガンダーラとシルクロードの美術展図録」 2002年 朝日新聞社