2012/11/02

敦煌莫高窟6 45窟南壁の観音の目は恐い 



10年前、45窟は修復中だったので、今回初めて見学した。
『敦煌の美と心』は、第45窟は、前室をもつ伏斗式方窟で、西壁に大龕をほるという。
実測図にあるように、45窟は主室の前に前室の一部と甬道が残っている。石窟ではほぼこのような形式になっているが、失われている窟も多い。
57窟同様小さな石窟で、『シルクロード第2集敦煌砂漠の大画廊』は、4m四方ほどの、どちとらかといえば小窟に属するという。
西壁は初唐期(618-712年)の57窟では二重龕だったが、45窟のような盛唐期(712~781年)の窟では一重龕になり、七尊像が置かれる。
七尊像 45窟西壁龕 塑造 盛唐・開元年間(713-741年)
『敦煌の美と心』は、華麗な展開を見せる釈迦如来像・二仏弟子・二菩薩・二天王の七尊像は盛唐様式の典型を示すものとして人気が高い。
迦葉と阿難は眉や鬚の表現に写実性がみられ、沈静した気分で両側に立つ様は弟子としての風格を示す。
鬚をつけ白眼をむき出しにしてにらみつける天王は、歩き出せばカタカタと音を立てるかと思われるほど写実的な鎧を身にまとい、片足をあげて邪鬼を踏みつけるという。
57窟では五尊の両外側の龕にも2体の菩薩が置かれていたが、45窟では天王に代わって一つの龕内に収まっている。
天王は、57窟南壁の説法図では観音・勢至菩薩の両外側に小さく描かれる程度だったが、盛唐ともなると龕内の弟子や菩薩像と同じ大きさで表され、睨みを利かせるようになった。
『敦煌石窟精選50窟鑑賞ガイド』は、菩薩像はいずれも頭髪を頭上に高く結い、やや腰をひねる三曲法を示し、半裸の上半身に胸飾、臂釧などの装身具をつけ、下半身に華麗な裙を着けるという。
初唐期の57窟の観音菩薩は腹部に僧祇支を着けていたが、この菩薩は着けていない。
57窟南壁の観音像は小さな像で、説法図の脇侍だったが、45窟南壁中央にはもっと大きな観音像が描かれている(下図はその部分)。
同書は、『法華経』「観音普門品」もよく知られている。壁画中央に描かれた観音菩薩の複雑に装飾された天蓋、華麗な瓔珞などは、当時の人々の篤い信仰心を反映している。その両側には観音菩薩の三十三応身と諸難救済の壁画が描かれているという。
この観音像は脇侍ではなく主尊像だった。
観音菩薩は正面向きで直立して描かれている。残念ながら膝から下が失われているが、少し身をかがめて見た57窟の観音像とは異なり、見上げるようにして眺めた(しかも、南壁には厚いガラス板はないので、直に見ることが出来る)。
左手には水甁を持っているが、右手がわからない。黒っぽく変色した手の甲が見えているので、何か持っているのは確かだ。
観音の西側には、様々な苦難に遭う人々が描かれている。

胡人商人遇盗は、「妙法蓮華経観世音菩薩普門品」にでてくる話である。旅の途中の商人がけわしい山道で盗賊におそわれ命を奪われそうになる。旅人は観音菩薩の名を唱え祈ったところ命が助かる。さらに盗賊もこれまでの罪を悔い改め仏教に帰依するという。
危機に陥った人たちだけでなく、悪者でさえ救うという、有り難いお経である。

『敦煌の美と心』は、この壁画は風俗画としてもすぐれており、当時のシルクロードの生活を知ることができる。盗賊の前に投げ出されている簀巻きのような荷物などは、唐代に敦煌のあたりを行き来した隊商そのものの様子であろうという。
実は図版を見て、この簀巻きの荷物を、刳りのある円柱に馬の頭部を付けた置物と思い込んでいた。実際に窟内でこの図を見てこれが何か確かめるつもりでいたが、やっぱり置物に見えた。王さんに質問しようかどうか迷っている内に見学時間は終了した。
今そのように見ると、確かに簀巻きにしたか、風呂敷で包んだ荷物だ。大きな布で包んで結んだ余りの布がはみ出しているのを馬の頭部と勘違いしていたのだ。
私の目は他の人とは異なったものに見えることなど多々あって、何を見ても楽しいのだが、これが何か判明した今は、質問しなくて良かったとつくづく思う。
その斜め下には描かれた妙な建物は、円形の獄舎で現実社会を写したもの(『敦煌石窟精選50窟鑑賞ガイド』より)らしい。
以前はこの建物が、トルファン郊外に位置する高昌故城で見た講堂と同じように、版築で造られたものだと思って納得していた。
しかし、莫高窟で王さんの説明を聞いていると、草を編んだものらしい。それは私が高昌故城に行く前に、この図を図版で見て想像していたものだった。上縁に枯れ枝のようなものが並んでいるのが、植物を編んで造ったことを示していたのだ。
建物の材質だけでなく、外観も講堂とは違っていた。正方形の平面にドーム(この場合円筒だが)を架構するために、四隅にあるはずのスキンチがないと思っていたら、平面が円形で、その外側の長方形あるいは正方形の壁が囲むという建物だったようだ。

この図がどの図版を見ても右半分がない。見学する時にはしっかりと建物全体を見てこようと思って行ったが、建物は南壁の西端に描かれて、しかもこの右側は西壁との境目になっていた。つまり最初から半分しか描かれていなかったのだった。

話がずれてしまった。この場面は首枷・手械をはめられた囚人さえ、観音菩薩の名を唱えただけで、それらが外れて自由の身になることを表している。
短冊形の説明文には「有罪でも無罪でも」と書いてあるように見える。無実の罪と限定していない。たとえ罪人でも。上図の盗賊のように悔い改め、仏教に帰依することになるからだろう。
そのように慈悲深い観音菩薩だが、その目は白眼の部分も黒くて恐~いのである。
何故白眼の部分まで黒いのだろうか。顔料が変色したとすると、⑧水銀朱の地に⑨鉛白を塗ったからだろうか。
それとも、黒目と同じように⑦煤で黒く塗り、目力を示したのだろうか。
(丸数字は『絲繡の道2敦煌砂漠の大画廊』にある顔料の分類を元にしています。
その一覧表はこちら
宝冠中央の化仏が何の憂いもなく、ふっくらした蓮華座に結跏扶坐している雰囲気がこの観音の緊張感を和らげているような気がする。

関連項目
敦煌莫高窟275窟1 弥勒交脚像は一番のお気に入り
敦煌でソグド人の末裔に出会った
高昌国で玄奘三蔵が説法をした講堂は
高昌故城の講堂の起源
敦煌莫高窟3 57窟、観音菩薩の宝冠に瀝粉堆金

※参考文献
「敦煌の美と心 シルクロード夢幻」 李最雄他 2000年 雄山閣出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「シルクロード 絲繡の道第2集 敦煌 砂漠の大画廊」 井上靖・NHK取材班 1980年 日本放送協会
「敦煌石窟 精選50窟鑑賞ガイド」 樊錦詩・劉永増 2003年 文化出版局