2012/10/26

敦煌莫高窟4 暈繝の変遷1

日本で暈繝というと同色の濃淡を重ねたものをさすが、中国では暈繝ではなく暈染で、隈取りも含まれている。
敦煌莫高窟を見学していると、暈繝法が時代によって異なっているのがわかってきた。

観音菩薩・阿難ほか 敦煌莫高窟57窟南壁説法図東側 初唐(618-712)
観音菩薩よりも、内側の阿難の方が瞼と頬に薄紅色をよく残している。
『中国石窟 敦煌莫高窟3』は、淡朱色の暈繝がある(中国語を字面で訳)という。
観音菩薩は、肌の上に施したうす紅色の暈繝が残っている。左の菩薩は肌そのものが灰色に変色しつつあり、暈繝はわからない。阿難の方が暈繝がよく残っており、体は部分的に変色が始まっている。
敦煌莫高窟は初期窟では西域の影響が見られるが、時代が進むと中原の様式を逆輸入するようになる。
比丘・菩薩像 同窟北壁中央説法図
その変色が進むと、黒みが増していく。頬や瞼に暈繝の痕跡はない。
ところが、初期窟の暈繝は、初唐期のそれとは全く異なっている。
『シルクロード第2集敦煌砂漠の大画廊』は、428窟南壁「説法図」、6世紀中頃北周時代の窟だが、この壁画の諸像は、いずれも太い黒い線で縁どられている。そして、野太い輪郭線のなかに眼鼻は白く太く描かれており、きわめて野性的である。
この画が、今世紀初頭世界に初めて紹介されたとき、それを見た人びとは一様に驚いた。ちょうど当時、世界を風靡していたマチス、ルノオらのフォービズムを見るようであり、千数百年たってもなお新鮮な画法である、というのであったという。

北周の窟だけでなく、敦煌莫高窟で残っている最も古い窟の一つ、272窟の壁画にも、臙脂ような暈繝の太い線が見られる。

飛天・楽人・菩薩像 272窟西壁及び天井
目は白いように見えるが、鼻筋の白いのはわからない。
それにしても、ラテルネンデッケの天井には、重くてお腹から落ちてしまいそうな天人がのびのびと両腕を広げ、天井から壁面への移行部にある小さな龕の天人たちは思い思いの姿勢で立ち、辺りを見回している。なんとも楽しそうな、笑い声が聞こえてきそうな壁画である。
この絵を知ったのは、1980年に放送された同名のNHK特集だった。当時敦煌莫高窟で知っていた壁画といえば観無量寿経変図など変相図くらいのもので、それも白黒写真か描き起こし図だった。
そんな頃に、同書に描写されている太い線の目立つ壁画をカラーで見たために、以降は経変図などは頭から抜けてしまった。
10年前に初めて敦煌莫高窟を訪れた時、最初に見る唐時代の数窟に経変図が描かれているのを見て、若い頃に勉強していた敦煌莫高窟の壁画はこのようなものだったのかと、遠い記憶が蘇ってきた。

それくらいインパクトのある初期窟の暈繝の変色について、同書は変色していないものと比較を行っている。

左:272窟西龕の菩薩 北涼(421-439)
右:263窟南壁「説法図」の菩薩 北魏(439-534)
同書は、この初期の窟の画法の秘密を解く鍵は、263窟で見つかった。11世紀の西夏の時代の千仏を描いた壁画の下から、もう一枚別の壁画が現れた。研究所の判定で、それは428窟より古い北魏時代のものであった。そして、そこに描かれた菩薩像は、淡紅色のぼかしの技法で縁どられた優美なものであった。428窟の黒い輪郭線は、外気との触れ合いで、この淡紅色のぼかしが化学変化を起こし、変色した結果だというのである。
272窟西龕壁の菩薩像も黒い太い輪郭線で縁どられている。これも変色の結果だという。それは、263窟の菩薩とほぼ同時代のもので、しかもほぼ同形、同意匠である。263窟の淡紅色の肌のぼかしが変色すると272窟のようになるという。
しかしながら、黒い線に縁取られた菩薩の顔や姿から、描いた当時はどのようであったか想像するのは至難の業。初期窟では、変色したものとわかっていても、太い輪郭線の目立つ古拙な様式で描かれたものと感じながら窟内を見て回ったのだった。
敦煌莫高窟では、北涼から北魏時代のぼかし、つまり暈繝は、初唐期のように肌の上にぼかした頬紅を重ねるのではなく、輪郭や顔・体の起伏のある箇所に黒く変化する淡紅色の顔料をぼかして描くという、全く異なる暈繝法を用いている。

彩色にはどのような材質を用いていたのだろうか。
『絲繡の道2敦煌砂漠の大画廊』は、莫高窟の壁画には、どのような顔料が使われていたのであろうか。常書鴻さんが1951年に『文物』に書いた「漫談古代壁画技術」という論文のなかで表示されているので、それを掲げよう。(黒字は私の解釈です)
第1類・鉱物質(直接使用するもの)
①朱砂                    変色しない  辰砂
②石青                    変色しない  ラピスラズリ
③石緑                    変色しない  孔雀石
④石黄                    変色しない
⑤高岭土(カオリン、上質の白陶土)  変色しない
⑥赭石                    変色しない  ベンガラ
⑦烟炱(煤)                 変色しない
第2類・人工顔料
⑧銀朱(硫化水銀)            鉛粉に触れると黒色になる  水銀朱
⑨鉛粉(アルカリ性炭酸鉛)        時間がたつと鉛色にもどる   鉛白

⑤のカオリンには驚いた。磁器の胎土に使われるものではないか。
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、南北朝時代、白磁が製造されるようになり、製磁業は新しい発展段階に入った。白磁を焼くのには純白の土をもちいなければならず、白陶土(カオリン)の鉄含有率を1%以下にまでしなければならなかったという。
当時すでにカオリンは大量に使われていたので、それを顔料として使うことなど大したことはなかっただろう。
朱砂ということばは王さんがよく口にしていた。しかし、変色しない①辰砂と、黒く変色する⑧水銀朱はどう違うのだろう。水銀朱の別名が辰砂で、硫化水銀のことだと思っていた。ここではとりあえず、変色するものは⑧水銀朱ということにしておこう。

初唐期の57窟では、菩薩の肌全面の下塗りに⑧水銀朱を使い、⑤カオリンで上塗りすると淡い肌色になる。そして経年変化でカオリンが剝がれてきたために、下塗りの⑧水銀朱が外気に触れるようになり、酸化して黒っぽくなっていったということだろうか。
頬や上瞼に⑥赭石をぼかして塗るのは現在の頬紅のようだ。頬紅をぼかしてつけるという化粧が中原に生まれ、それが仏像にも施されるようになって敦煌まで伝播してきたのだろう。

そして、北涼から北周時代に行われた淡紅色のぼかしはやはり⑧水銀朱で、⑨鉛白を塗った白い肌の上に淡紅色のぼかしを施して立体感を出していたのではないだろうか。
それはキジル石窟で見たような、白い体の輪郭線を濃い赤で描き、段々ぼかして立体感を出すという技法を採り入れていたということになるだろう。

関連項目
敦煌莫高窟5 暈繝の変遷2
トユク石窟とキジル石窟の暈繝?
日本でいう暈繝とは
日本でいう隈取りとは
隈取りの起源は?

※参考文献
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 1987年 文物出版社
「シルクロード 絲繡の道2 敦煌 砂漠の大画廊」 井上靖・NHK取材班 1980年 日本放送協会
「中国の仏教美術 後漢時代から元時代まで」 久野美樹 1999年 東信堂 世界美術双書
「図説中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明」 稲畑耕一郎監修 2005年 創元社