2011/08/02

ササン朝は正方形にスキンチでドームを架構する

アーチやヴォールト天井を用いて、日干レンガのような小さな部材でジッグラトのような大きな建物を建造していた古代メソポタミアにもドームはなかった。
では、ササン朝ペルシアに突然現れるドームはどのようにして造られるようになったのだろう。


フィルザバード宮殿 3世紀前半
フィルザバードに宮殿を建立したのはササン朝の開祖アルダシールⅠ(在位226-241)だった。
フィルザーバードは円形の都市だった。 
『世界の大遺跡4メソポタミアとペルシア』は、イラン南西部の都市シラーズ(Shiraz)の南116㎞の地点に、濠、土塁に囲まれた径約2㎞の円形都市フィルザバードがある。今も”栄光のアルダシール”と土地の人の呼ぶ遺跡で、中央に白く拝火壇がみえる。王宮址は城壁外にあって見えない。城壁内の耕地の様子から拝火神殿を中心に放射状に道の敷かれた様がよくうかがえて、四方4ヵ所に門址が見出されている。
パルティアの軍事都市を継承した円形プランであるが、居城は城外に営むという新しい面もあるという。
円形都市はパルティア風だったようだ。しかし、パルティアにドームはあったのだろうか。

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確かにハトラは円形に近い都市だ。
『世界の大遺跡4メソポタミアとペルシア』は、北イラクのモースル(Mosul)の南南西約90㎞の黄冶のなかに、パルティアの時代、西方ローマ軍に対抗して築かれた軍事都市、隊商中継地としてのハトラ遺跡がある。騎馬戦闘に巧みなパルティアにとってローマ軍を迎えるのには荒野を選択したのであろうか、形態も遊牧民の間でしばしばみられる円陣に即して城壁を築いている。
矩形に区画された聖域を中心に、周囲に住居の営まれたハトラは、堅固な切石積みの内城壁、濠で囲まれた径約2㎞の円形都市で、内城の外側400-500mに外城壁を設けている。街路の様子も窺えて、ほぼ東西南北の4ヵ所に門を開いていた。北門近くの発掘地は王宮址という。
円形の都市は円陣からきているのか。それに王宮は都市の中心ではなく端に置くというのも、フィルザバードに影響を与えたのではないだろうか。

ハトラ宮殿 前1世紀頃
同書は、ハトラ中央の聖域の西部に数基のイワンを南北に併置した建築がある。前庭は障壁によって南北に分けられ、南(左側)イワン中央奧に廻廊でかこまれたシャマシュ神殿がある。この神殿の入口の半月状アーチと内部の壁面には、ヘレニズム風の人頭、動物浮彫が施されているという。
どうも上の航空写真は北が下側になっているようだ。
ハトラにはヴォールト天井の一種と思われるイーワーンがあったようだが、ドームはなかったようだ。


一方、フィルザバードの平面図を見ると、パンテオンのような円形の平面にドームを載せるのではなく、正方形の平面にドームを載せる、どちらかというとコンスタンティノープルのアギア・ソフィア聖堂に近い。

しかし、その架構法は、アギア・ソフィアのようにペンデンティブという三角曲面を用いてその上部を円形にし、その上にドームを架けるのではなかった。

旅の空というサイトのイランの旅2009 6フィールーザーバードに宮殿の様子がくわしく紹介されている。そこにはパンテオンやローマの浴場のオクルスのように、ドームのてっぺんには開口部がある。採光の工夫として自然なものだったのかも知れないが、ローマのドームの影響と言えなくもない。
そして正方形の壁の隅がスキンチになっている。

後の時代に現トルファン郊外の高昌国に造られたβ寺院講堂にもそのスキンチは用いられていたので、スキンチからドームを架構している様子はわかる。

『イスラーム建築の見かた』は、スクインチは英語で隅、ペンデンティブは垂れ下がるものを意味している。スクインチとは、立方体に内接する半球形を載せるとき、四隅の部分に45度方向にアーチや筋交い梁を入れた処理を指す。スクインチはどちらかといえば、先に述べた東のドームを支えた技法である。煉瓦で厚い壁体を構築し、その上にドームを載せるため、壁の上からアーチを立ち上げて八角形などより円に近い形を導くという。
要するに、スキンチで、1辺ルート2の八角形にして、そこから水平面が円形になるようにしていくということだ。

岡田氏は彼は今日のフィールーザーバードに宮殿を築いたが、それ以前、まだアルサケス朝の諸侯だったとき、近傍の山頂に城を構えていた。ドームやヴォールトといったサーサーン朝建築を特徴づける造形要素をはじめて確かめることができるのが、カラエ・ドフタルと呼ばれるその城なのであるという。
226年以前にもドームはあったらしい。

旅の空・イランの旅2009の5アルダシールの城にはやはり頂部がふさがっていないドームの写真があるのだが、正方形から円形への移行部がどのようになっているのかがわからない。

シャープール1世宮殿 3世紀中葉 ビーシャープール
『古代イラン世界2』は、その息子でもあるシャープールⅠ世(在位241-272)は、260年に再度ローマ軍と交戦しペルシア側に圧倒的勝利をもたらし、特にローマ皇帝ヴァレリアヌスを捕虜とし、ローマ軍の捕虜7万人とともにイランに連行している。
捕虜のなかにいた多くの専門技術者や捕虜を動員して都市、道路、ダム、橋などの大土木工事を行ないイラン南部の発展をもたらしている。とりわけ彼の名を冠した都市ビーシャープールは、直線の通りが碁盤の目のように直角に交差する、いわゆるヒッポダモスの考案した西方の様式によって造られた都市として有名であるという。
ササン朝の都市は、早くもパルティア風の円形からローマ風になってしまった。
しかし、パルティア風のフィルザバードの宮殿以前にもすでにドームはあったし、3世紀にはローマ帝国にはまだ正方形からペンデンティブを用いてドームに架構するということは行われていなかっただろう。

『世界の大遺跡4メソポタミアとペルシア』は、近くの山に要塞設備を王宮、ここを防禦の固めとし、都市は山を背にし、川に臨む美しい町作りを目指した。ここを”美しいシャー(皇帝)の町”の意味をこめてビシャプールと名づけた。フィルザバードと異なって王宮も街内に作られ、いくつかのイワン状アーチ天井をもつ小部屋にかこまれた大広間をそなえたササン朝建築の特色を示す宮殿を営んだという。
ローマ人に造らせた建物には、ペルシア的なイーワーンがあったようだが、ドームについての記述がない。

イランの旅2009の3ビーシャープールは、かつて大ドームがあった宮殿などが残っているが、残念ながら、崩壊して、ほとんどが石積みばかりである。原因の一つは、ササン朝ペルシアの採用した建築技法にあるというのがガイドの説明だという。

ローマ人がつくったドームの現存最古のものは、ポンペイのスタビア浴場の冷浴室で、前2世紀のものだ。
それに対して、ササン朝のドームは正方形にスキンチで八角形を造ってから水平面を円形に近づけ、上にドームを載せるという、全く発想の異なるものだった。
ローマ世界とは全く異なるドームの架構技術を獲得したことになるのだが、逆にスキンチからドームを造る技術がローマ世界に伝わって、ペンデンティブからドームを造るようになったのだろうか。

関連項目
スキンチとペンデンティブは発想が全く異なる

※参考サイト
旅の空のイランの旅2009から5アルダシールの城6フィールーザーバード3ビーシャープール

※参考文献
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団

「ペルシア美術史」 深井晋司・田辺勝美 1983年 吉川弘文館
「イスラーム建築の見かた 聖なる意匠の歴史」 深見奈緒子 2003年 東京堂出版
「世界の大遺跡4 メソポタミアとペルシア」 編集増田精一 監修江上波夫 1988年 講談社