2010/11/16

奈良時代の匠たち展4 唐招提寺金堂の下成基壇に塼 


塼というと、中国のものは高温で焼き締まったものを思い出す。敷地といわず、壁も家屋もライトグレーの塼で造られていた。しかし、日本の寺院では屋根の瓦と同じような焼け方の四角形のものが敷き詰められているくらいだったので、塼というのは、寺院の床面に建物の方向に対して斜めに敷き詰められるものだと思っていた。

斜め格子に敷き詰められた塼はこちら(大徳寺龍源院の方丈の庭)
ところが、奈良時代には堂を構成するためにも塼が使われていたらしい。

塼 42X41.5㎝ 厚12㎝ 唐招提寺金堂
同展図録は、 金堂の下成基壇の地覆石をのせていた塼である。正方形で大型である。箱状の型枠を用いて作られたようで、成形時に粘土を積み上げた痕跡が明瞭にみられるという。

塼が平たい瓦状のものと思っていた頃は、厚さも瓦程度だと思っていたが、このように厚さのあるものだったのだ。
創建当初の基壇外装を構成したものも検出された、塼と凝灰岩の石列で、まず整地面を掘り込んで塼を水平に据え付け、その上に凝灰岩の切石がのる。これらの規模は東西約36.4m、南北約23mと現状の基壇よりひとまわり大きく、二重基壇の下成基壇の地覆石であると推定されているという。
塼は下側の基壇の輪郭に一列に並べられていたようだが、何故硬い切石ではなく塼だったのだろう。塼の上の石が柔らかい凝灰岩なのも不思議だ。硬い石材が調達できなかったのだろうか。
それとも切石の大きさをそろえるよりも、型づくりで均一の塼を大量につくる方が、当時は容易だったのだろうか。
金堂基壇全景 東西約35.2m南北約21.8m
唐招提寺金堂は新田部親王の邸宅の跡地に伽藍が造営されているが、その当時の地面に厚さ60-70㎝の盛土による整地をおこない、その上に2種類の粘土質をそれぞれ厚さ30㎝ほど盛土し、その上から基壇上面まで10㎝ほどの厚さで2種類の土をつき固める版築が施されていたという。

版築は桜井茶臼山古墳(4世紀初)のものが私が見た中では日本最古だと思うので、かなり古くから日本に将来されていた技術だろう。
中央の三尊が安置されていた壇に敷かれているのは切石だろうか、塼だろうか。

※参考文献
「奈良時代の匠たち-大寺建立の考古学-展図録」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)