2010/11/09

唐三彩から青花へ


奈良三彩も唐三彩も今まで見てきた作品は緑色・褐色・白色の3色だったが、唐三彩には奈良三彩にはない藍色釉もある。

三彩双魚壺 西安市長安南里王村唐墓出土 唐、7-8世紀 器高25.2㎝胴部幅20.0㎝ 陝西省考古研究院蔵
『大唐皇帝陵展図録』は、この壺は、二匹の摩羯(まかつ)が、腹部を合わせて直立し、尾びれ部分を底部とする二耳壺である。
釉は、淡黄色を基本として、藍色と褐色が外面全体に施され、とこどころ緑に発色している。胎土は白色で軟質であるという。
こちらの作品も魚の形とは関係なく藍色と褐色が流れるようにかかっている。右の摩羯の尾に藍色の点々があるので、全体に褐釉を掛けて、その上に藍釉を散らしたのだろう。
黄冶窯は唐三彩が作られた主要な窯の一つである。『まぼろしの唐代精華-黄冶唐三彩窯の考古新発見展-図録』には、奈良市大安寺旧境内から大量に出土した唐三彩枕の施釉法とよく似た器が出土している。

三彩洗 河南省鞏義市小黄冶窯跡Ⅱ・Ⅲ区出土 黄冶窯第3期(唐代中期、684-840年)

陰刻した文様の輪郭が、ほぼ色釉の境目となっている。類似の模様印判も出土しているので、土が軟らかいうちに印判を押したものだとがわかる。
そして、地には褐釉や緑釉の上に白釉を点々と置いて、点描のようだ。同展図録は、点彩、画描、まきちらし、注ぎがけなどの施釉手法も様々であるという。「点彩」と表現するのか。
同時期に、もっとあっさりとした色彩のものも作られている。

白釉藍彩碗 黄冶窯跡Ⅱ・Ⅲ区出土 黄冶窯第3期(唐代中期、684-840年) 
同展図録は、出土した少なからずの白釉藍彩の資料は、胎土がよくしまり、細質で、釉色も濁りがなく、色鮮やかで、青花瓷の起源に重要な実資料による証拠を提供したという。
ほとんどのものが素焼きの前に厚い化粧土を1層かけるというように、白く硬い磁器の青花(染付)とは異なっているが、白い地の部分を見せ、その上に点描で文様を描くというのは青花へと繋がりそうだ。
唐青花瓷器 河南省鞏義市黄冶窯跡Ⅱ区出土 黄冶窯第4期(唐代晩期、841-907年)
唐代中晩期の地層と土坑内から検出した、多くの白釉藍彩瓷器は、硬くきめ細かい胎質で、色に濁りがなく、色艶も鮮やかな釉がかかるなど、青花の起源に関する貴重な実資料となった。 
この時期のものである少量の匣鉢(さや)が発見されている。このことは、この時期に匣鉢を窯道具として使用することが、黄冶窯ではじめられたことを示していようという。
第4期になると胎土も白くなって磁器らしくなるが、文様は筆の先から滴を垂らした程度だが、これが磁器の青花へと繋がるものらしい。
また、窯の中で器を保護するための匣鉢が使われるようになったのと、青花瓷器の生産とは関係があるのだろうか。
中国の青花瓷器については、欧米の研究者を中心に、9-10世紀の青花瓷器が少なからず発見される中東イスラム地区を起源とし、14世紀の元代に中国へ伝わったとする考えが有力であった。しかし、1975年に江蘇省揚州農学院の唐代晩期の地層から青花枕片と青花破片が、また、1983年に揚州市区文昌閣付近でも、これらとよく似た青花瓷器が、それぞれ出土し、この中東イスラム地区起源説は、再考を迫られることになった。
その後、胎釉成分の理化学分析により、これらの唐青花瓷器片のものと鞏県唐三彩窯の藍釉瓷の成分が近似することが判明した。1999年には、インドネシア海域で発見された9世紀の沈没船「黒石号」から引きあげられた67000点もの唐代の陶瓷器類の中に完形の青花瓷器3点が含まれていたことから、唐青花瓷器の存在が実証されるとともに、それが貿易品であった可能性を示したという。
9-10世紀の唐の青花瓷器と中東イスラーム圏の青花瓷器、どちらが早かったのだろう。
また、唐青花瓷器と、元代(1271-1368年)の青花磁器の間にはあまりにも長い期間がある。唐で青花という技術が生まれたとしても、それが元にまで繋がったかどうか。

関連項目
定窯の白磁で蓮華文を探す

※参考文献
「平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展図録」(2010年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)
「まぼろしの唐代精華-黄冶唐三彩窯の考古新発見展-図録」(2008年 飛鳥資料館)