2010/10/26

截金の起源は中国ではなかった


『日本の美術373截金と彩色』は、中国で白大理石に金箔を押し(北斉武平元年[570]白大理石台座・白鶴美術館蔵)、截金、截箔を置く(8世紀中頃、西安大安国寺遺址出土宝生如来坐像、陝西省博物館蔵)ことに長い歴史があり、北宋康定元年(1000)8月には、金箔を以て仏像を飾ることが禁ぜられる(『宋史』巻10)ほど截押金箔は盛んであったという。

大安国寺遺址出土宝生如来坐像はこちら
中国で金箔を貼ることから始まった截金装飾は、南宋になっても仏像を荘厳し続けたようだ。

観音菩薩坐像 木造 像高113.8 南宋時代 湛海請来 京都泉涌寺蔵
『東アジアの仏たち展図録』は、建長7年(1255)に泉涌寺開山の俊芿の弟子である湛海が、南宋明州の大白蓮寺から、仏舎利とともに請来したと伝える観音坐像。全面を金泥塗とし、着衣部にはさらに切金文様がおかれるという。
この観音菩薩は「楊貴妃観音」と呼ばれている。長く秘仏であったために保存状態が良いらしいのだが、金泥に截金というよりも、文様の線は黒く見える。

『日本の美術373截金と彩色』にはその截金について詳しい表現がある。
西川新次先生の言葉を借りると、「直線を交錯させながら、六角形の車輪形を連ねるもの」(上衣)「雪の結晶にも似た文様を繋ぐもの」(裳)などの「直線的幾何学文様ともいうべき文様」と「牡丹唐草繋ぎ文(植物文)」(衣襟)および「雲渦文」(袖裏)の3種に大別されるという。

六角形の車輪形を連ねるものというのは左肩から腕にかけて見られる文様だが、文様自体が大きいのと、襞で途切れているために、亀甲繋ぎ文とは見難い。どちらかというと、裳の雪の結晶にも似た文様を繋ぐものが、中央に点のある小さな亀甲繋ぎ文に見える。
観音菩薩立像 木造 宋代 クリーブランド美術館蔵
文様は二重亀甲繋ぎ文と斜格子文を重ね交叉するところに六ツ目菱を置いたもので、泉涌寺楊貴妃観音坐像の直線六角車輪形に相通じるところがあるという。
亀甲の中を方向を変えながら線を何本も引いて埋めていくよりも、この像のように、対角線の間に菱形の截箔を置いているほうが、文様して洗練されている。しかし、宋代(960-1279年)と制作年代の幅が広いので、泉涌寺の観音菩薩と本像ではどちらが先につくられたのかわからない。
截金の起源はやっぱり中国だと思っていたが、『日本の美術373截金と彩色』には、驚くべきことが書かれていた。
なお、六角車輪形の截金文様の淵源を遡ればアフガニスタンのジャラーラーバード近くのタペ・シャトール(ハッダの遺跡)から出土した仏像の断片(3世紀)の台座部分に置かれた截金文様に辿りつくという。
残念ながらどの本を探してもこの仏像と截金文様は見つけられないでいるのだが、中国とばかり思っていた截金装飾が、3世紀のアフガニスタンにすでに完成された形で出現しているとは。

『仏像の系譜』は、アフガニスタン北部地方は、その昔、バクトリア王国を中心として栄え、隣のガンダーラと共に、ペルシア・アカイメネス王朝やマケドニアのアレクサンドロス軍、さらにはクシャーン王朝の洗礼を受けたところであった。ガンダーラ同様ギリシア系人種の住んだところとして、様式的にもガンダーラとよく似た仏教美術を残している。例えば、アフガニスタンでもガンダーラに最も近い遺跡であるハッダの仏像は、ガンダーラ様式としてガンダーラ美術の中で述べられることが多く、反面、ガンダーラ美術のモチーフを借りながら、また、インド美術の影響を受けながら、様式的にはアフガニスタン独自のものが見られるという。
ハッダは歴史的にも地理的にも、様々な影響を受けた地方なので、截金装飾がどこからもたらされたものか想像することもできない。

それとも截金は、アフガニスタンに古くからある装飾技法なのだろうか。

関連項目
金箔入りガラスの最古は鋳造ガラスの碗
中国・山東省の仏像展で新発見の截金は

※参考文献
「日本の美術373 截金と彩色」 有賀祥隆 1997年 至文堂

「東アジアの仏たち展図録」 1996年 奈良国立博物館
「仏像の系譜-ガンダーラから日本まで-」 村田靖子 1995年 大日本絵画